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戦艦探偵・金剛~シルバー事件23区~ TRANSMITTER #1 MOON RIVER⑤

同日 午前十時十一分 千代田区 神保町

 古書店の町、神保町は天下の東京二十三区の一つ、千代田区に位置する町だ。
 同じ東京都と言っても、神保町と八王子市は地理的にはほとんど東端と西端に位置していると言っても過言ではない。おかげで炎天下の中、スミオとクサビは車で一時間ほどかかってようやく辿り着くことになった。
「ランプ付けてサイレン鳴らせば楽だったんだがなぁ」
 ドアを閉めてクサビが言った。そのアイデアは終始、スミオの頭にも浮かんでいたが、実際にやるのは職権乱用だろう。
「そういう不穏当な発言はやめてください」
 スミオは車の鍵を確かめて言った。クサビなら本当にやりかねないかもしれない。それで怒られたら子供みたいに拗ねるのだ。完全体となったおっさんは無敵だ。
 道路の端へ車を停め、外へ出ると日光の直射がきつかった。先を行くクサビが、
「早くしろスミオ、いつまでも車のドアに手こずってるんじゃない」
 と言うので、
「うるせぇよ、急かすんじゃねぇ」
 思わず本音が漏れる。
「あんだとぉ、撃ち殺すぞボケ!」
「つーか、目的地分かってるんですか?」
 通りには設定をミスったとしか思えないくらいの数の古本屋が軒を連ねていた。それらが一斉に北を向いて古本を並べている光景は圧倒的だった。一方で、道路を挟んで反対側には書店が見られない。どうやら本に日の光を当てて痛ませないようにするために、わざわざ北向きに店を出しているようだった。
 神田神保町にこのような古書店街が生まれたのは偶然ではない。
 明治十年代、この地域には明治法律学校を始め、英吉利法律学校、日本法律学校、専修学校といった大学が開校され、そこへ通う学生をターゲットに法律書を売り込むために次々と本屋や古書店が出来た。
 やがて時代が進み、先に挙げた五つの学校がそれぞれ明治大学、中央大学、日本大学、専修大学と名を変え、多様な学部を持つにつれて本屋も彼らのニーズに合わせて多様な本を取り扱うようになった。
 深海棲艦の空襲被害を受けなかったのも幸いした。おかげで神田神保町には総数約二百点の古書店がひしめく、世界最大の古書店街となったのだ。
 その街の住所と一件の古書店の名前が、クサビの手紙の中に書かれていた。差出人はムナカタリュウ。クサビが警視庁で勤務していた頃の同僚で、今は警視正らしい。
『古書を扱うには古書の鑑定が不可欠だ。神田神保町には最高の鑑定人が存在する』
 鑑定人にカムイネットを鑑定して貰えば、出版社に辿り着けるかもしれない。今のところ、それがカムイに繋がる唯一の手掛かりだった。
 しかし鑑定人はどこにいる? ムナカタの手紙には店名『花と太陽と雨と』しか書かれていなかった。
「テツさん………」
 不安そうにスミオがクサビの背中に呼びかける。気弱な声色より、蝉の鳴き声の方が元気だった。
「心配するなスミオ。俺たちは刑事だ。刑事の基本を思い出せ。聞き込みだ。そうだ聞き込みだよ。聞き込むんだよ」
「わかりましたよ」
 スミオは手始めに一軒の古書店へ入る。通りにも立ち込めていた古本の臭いは、店内に入るともっと強く感じられた。ただし日陰に入るとそれなりに涼しく、スミオは少しだけ生き返る気分だった。
 床から天井まで、欲しい本が真ん中に会ったら崩れて生き埋めになるんじゃないかと思うくらいの本の山に囲まれて、店主らしい老婆が扇風機の前で佇んでいた。
「すいません」
 スミオが声をかける。
「この辺に花と太陽と雨―――」
「知らないねぇ。本買わないなら帰ってくれ」
「いやあの、俺、警察―――」
「帰りなさい」
「はい………」
 食い気味に返答され、空しく帰るクサビとスミオだったが、その後に二、三軒ほど古書店を回って聞き込みを続けると、何とか花と太陽と雨とへの道筋を教えてもらうことが出来た。それによると、花と太陽と雨とはこの古書店街の裏の路地に存在するらしかった。
 裏路地は都市の内臓だ。表側から見えない世界には、表側から見えない者たちが集まる。スミオとクサビが辿り着いたのは、こじんまりとした小さなホテルだった。
 ホテル『Flower,Sun and Rain』
「なんて書いてあるんだスミオ」
 看板に掲げられた文字を見るクサビ。
「こんな単語も分からないんですか?」
 スミオが驚きの声を上げた。
「うるせぇな。日本人が日本語だけで何が悪い」
「花と太陽と雨とです」
「おっ、じゃあここが例の鑑定屋か?」
「たぶん。他に店もなさそうだし」
「しかし見たとこホテルだが」
「ホテルですね」
 スミオが同意する。
「まぁ、ここでジッとしてても仕方ねぇ。とりあえず入ってみようや」
「そうっすね」
 ドアを開ける。路地裏の小さなホテルにしては手入れが行き届いていた。琥珀色の照明に、クラシックの音楽が鳴り響いている。ジムノペディだ。羽虫のような音を立てて扇風機が生ぬるい室内の空気を回していた。
「いらっしゃいませ」
 受付の男が声をかけた。金髪の白人男性だった。それにしたは流暢な日本語だった。
 日本に滞在して長いのか?
 そう思いながらスミオとクサビが受付へ向かう。
「ご予約ですか?」
 受付の男がたずねた。
「いえ」
 スミオが答える。
「そうですか。幸い部屋は空いています」
「いや、いい」
 クサビが答えた。
「己たちは鑑定人を探してる。本の鑑定人だ」
 それを聞くと男は、
「チッ!」
 舌打ちした。
「今、舌打ちした?」
 スミオが言うと、
「いえ」
 受付の男は咳払いして、
「イシザカくん!」
 と、スタッフルームへ向かって大きな声で言った。
 しばらくすると、
「はい」
 短髪の、ぼんやりとした十代後半から二十代前半の男が受付へやってくる。ボーイの制服を着ているから、ここの従業員なのだろう。
「こちらが本の鑑定をしているイシザカです」
「イシザカっす」
「一つ訊いていいですか?」
 スミオが言った。
「なんなりと」
 と、受付の男。
「何でホテルが本の鑑定を?」
「このホテルは裏路地にあります」
 受付の男が説明する。
「必然的に客が来ないのです。客が来ないとホテルの運営は不可能です。そこでイシザカにアルバイトとして本の鑑定をさせているのです。現在では当ホテルの収益の半分以上は古本の鑑定です」
「しかしこの兄ちゃんにそんな芸当が出来るのか? 鑑定なんぞ」
 クサビが言った。
「イシザカは雑誌マニアです。雑誌専門の鑑定人です。すぐれた直感像記憶能力で、一度見た雑誌を完璧に記憶します」
「ほう、そうか。なんかよく分からんがそりゃすごい」
「分かっていただけましたか?」
「おう、分かった」
「それでこちらの本を鑑定していただきたいのですが」
 スミオがカムイネットを取り出すと、
「鑑定料は一冊五千円です」
 受付の男が言った。
「五千………おい、冗談だろスミオ。先月、ナカから同じ金額を借りたばっかだぞ!」
 クサビが動揺する。
「っていうかテツさん、ナカさんから五千も借りてんですか」
 スミオが言った。彼としては、そちらの方に驚いた。
「何で?」
「競馬でスッて」
「バカ」
「あんだと!」
「とにかく五千円です」
 受付の男が言った。スミオはその胸のプレートにあるエド・マカリスターという文字を見て、
「ええと、君はエドというんだね?」
「左様です」
「実は俺たちこういうものなんです」
 スミオが警察手帳を見せる。
「ここは捜査協力ってことで何とかなりませんかね」
「なりません」
「捜査に協力しないと逮捕しますよ?」
 逮捕と聞いてイシザカの顔が強張る。一方、エドは笑顔のまま表情一つ変えずに言う。
「本当に逮捕するのですか?」
「逮捕しますよ」
「現行犯以外では令状が必要なのでは?」
「現行犯です」
「だとすると何の嫌疑で?」
「それは………」
 スミオは言いよどんだ挙句、
「逮捕してから考えます」
「本気で言ってるんですか?」
「本気です」
「わかりました。そこまで言うならイシザカくん。鑑定して差し上げなさい」
「え? ああ、はい。え? はい」
 イシザカがスミオからカムイネットを受け取る。
「まったく、最初からおとなしくそうすりゃいいんだ」
 クサビがぼそっと呟いた。
 ホテルの待合室に、ページをめくる音が響く。イシザカは飛ばし読みするかのようにパラパラとカムイネットを捲って、閉じた。
「何か分かりました?」
「わかんないです」
 イシザカはアホみたいな顔をして、アホみたいなことを言った。
「てめぇ撃ち殺しちゃうぞ」
 クサビもキレる。
「まぁまぁ、テツさん落ち着いて」
「これ印刷所でちゃんと印刷した奴じゃないでしょ? 流通経路が分からないんじゃ、よほど有名な人が書いてないと追えませんよ」
 イシザカの言う通り、作者や編集者の名前どころか、奥付には印刷所の名前すらない。だがしかし、だからこそスミオとクサビはここへ一縷の望みをかけてやってきたのだ。
「なんでもいいから何か分かることはありませんか?」
 そう言われると、イシザカは一つだけ答える。
「この表紙を書いたのはおそらくアヤメでしょう」
「アヤメ?」

同日 午後十二時四十七分 八王子市 朝顔荘

 イシザカの説明によるとアヤメことシモヒラアヤメは二十年以上前に活動していた画家であるという。一九三四年に東京芸術大学西洋画科を卒業した後は、主に雑誌の表紙を書いたりしながら生計を立てていたようだ。
 その四年後、一九三八年に突如として前衛画家として舵を大きく切る。その時期は奇しくもウエハラカムイが世間を騒がせた時期と符合するのは偶然だろうか。
 しかし画家としてはたいして売れなかったようで、とある出版社から画集を一冊出したのみである。スミオとクサビがその出版社に問い合わせてみると、当時の住所を聞き出すことが出来た。するとアヤメは八王子市内にある朝顔荘というアパートに住んでいるのだという。
「ここが朝顔荘か?」
 背広のジャケットを肩に担いでクサビが言った。
「表札ないけど、それっぽいですね」
 額の汗を拭いながら、同じくスミオが言った。
 朝顔荘は二階建ての木造アパートで、スミオはおろかクサビよりも年上なんじゃないかと思うくらいに古かったが、丁寧に補修が繰り返されているらしくボロボロだという印象を抱かせない。名前の通り玄関先にはたくさんの朝顔が、ボロボロの板塀を背景に鉢植えへ植えられていた。
 出版社の話ではアヤメの部屋は一階の右端らしい。
「このあと昼飯にラーメン食いにいこうや」
 クサビが言うと、
「いいっすね」
 スミオが同意する。
「でも冷やし中華の方がいいかな」
「ああ、そいつの存在忘れてたわ」
 アパート右端の部屋の玄関は、二階へ続く階段と、隣の建物との間に隠れる形となって日光が遮断されていた。ただ陽の当たらない場所特有の、陰気な湿気と土のにおいが鼻孔を擽った。
 部屋の表紙には何も書かれていなかった。刑事の直感が、この部屋は空き部屋だということを告げる。
 一応、ノックして呼びかけてみる。
「アヤメさん、いらっしゃいますか?」
 すると、
「アヤメさんは死にましたよ」
 後ろから声がした。振り向くと、五十代後半らしい小さな老婆がそこにいた。
「あなたは?」
 スミオがたずねる。
「ここの大家さ。あんたらは?」
「警察です」
 スミオとクサビが警察手帳を見せる。
「大家さん、アヤメさんはいつ死んだんです?」
「一ヵ月くらい前かなぁ」
「シモヒラアヤメはずっとこのアパートに住んでたのか?」
 と、クサビがアパートを指さして言った。
「私がまだピチピチだった頃から住んでたさぁ」
「詳しい話をお聞かせ願えますか」
 スミオが手帳を出しながら言った。
「アヤメさんはどんな人でしたか? 遺族は?」
「いんや、あの人はずっと独身だよ。まぁ、美人だけど変わった所のある人だからねぇ。よくわかんないねぇ。聞くと絵描きさんっていうじゃないか。やっぱり芸術肌の人は感性がねぇ、人と違うからねぇ」
「死亡したのはここか?」
 クサビが言うと、大家はあからさまに嫌な顔をして、
「馬鹿言うんじゃないよ。そんなことされたら事故物件になっちまうよ」
「違うのか?」
「違うよ」
「じゃあ、どこです?」
 と、スミオ。
「学校だよ」
「学校?」
 スミオとクサビは同時に声を上げた。
「アヤメさんはね、学校の先生だったんだよ。美術の………」
「その、勤めていた学校はどちらです?」
「それはね………」

同日 午後二時四分 八王子市 雛代高校

 スミオとクサビは校長室で校長と教頭と、机を挟んでお互いに黒い皮張りのソファーに座り対面していた。いつもなら緊張するのはスミオの側だったが、今回、緊張と言うか恐縮しきっているのは校長と教頭の方だった。
 今日は龍田は休みを取っているそうだった。生徒の姿もいない。昨日の今日の事件で休校になったのだ。夏休みはもうしばらく延長するらしい。
「煙草いいか?」
 クサビが言った。
「ええ」
 校長が言う。クサビはポケットを探って、
「ああ、いや、やっぱいいわ。禁煙中だった」
 と言ってやめた。
「この学校で先月、シモヒラアヤメという美術教師が亡くなったのは本当ですか?」
 スミオが訊ねると、校長は首を縦に振って、
「はい。あれは、七月でしたかな。教頭先生」
「ええ、七月三日です」
「詳しい情報をお聞かせ願えないでしょうか?」
「シモヒラ先生は三階の美術室で亡くなりました。確か放課後だったと思います」
 教頭が答えた。
「美術部の部長もしていて、生徒に教える傍ら、自分でもよく絵を描いていたのです。下駄箱に大きな花の絵があったでしょう? あれもシモヒラ先生の作品です」
「死因は?」
「心臓発作………だったか心筋梗塞………だったような気がします。元々高齢で、よく心臓の薬を飲んでいましたから」
「突然死んだのですか? そのとき一緒だった人は?」
「いません。美術部の生徒が、美術室へ行くと既にシモヒラ先生は床に倒れていたそうです」
「最後にシモヒラ先生を見たのは?」
「我々でしょうか」
 校長が言った。
「HRを終えて、職員室で二学期の授業計画と必要な教材のまとめて、私がそれに判を押しました。そのあとシモヒラ先生は職員室を出て美術室へ向かったのだと思います」
「どうしてシモヒラ先生のことをお調べになっているのですか?」
 教頭が質問した。
「もしかして、シモヒラ先生がナナミさんやソノダさんの事件と何か関係していたとか」
「申し訳ありませんが、まだお答えできる状況ではありません」
「はぁ」
「シモヒラアヤメと、ナナミケイ、ソノダユリコに何か接点はあったか?」
「特には無いと思いますが―――」
 教頭がそう言いかけると、途中ではっとした顔つきになって、
「ちょっと失礼します」
 と、校長室を出て行く。少しして戻って来た教頭は、分厚い台帳を抱えていた。テーブルに台帳を置いて、スミオたちの目の前で開く。どうやら部活動の部員を記した台帳のようだった。
「確か………そう、これだ」
 教頭が書類の一角を指さす。美術部部員の項目、そこには確かにソノダユリコの名前があった。
「そういえば、シモヒラ先生を最初に発見した生徒が、ソノダユリコだったような気がしたんですよ」
「繋がって来たな」
 クサビがスミオに耳打ちした。
「ナナミケイの方は?」
 スミオが訊ねる。
「ナナミケイの方はですね」
 教頭が台帳を捲った。
「帰宅部ですね」
「ナナミケイとソノダユリコの接点は?」
「そこまでは分かりませんねぇ」
 教頭が顎を撫でさすった。
「教室は別々なのか?」
 クサビが問う。
「別々なのも何も、ナナミケイさんは一年一組、ソノダユリコさんは二年五組です」
「繋がりは無さそうですねぇ」
 と、校長。
 いや、繋がりはある。カムイネットだ。
 スミオは考える。
 そして彼女たちはどうやってカムイネットを入手したかだ。交友関係を片っ端から当たるか? いや、時間がない。生徒全員の家宅捜索も現実的じゃない。
「そんな難しく考えるこたないぞ、スミオ」
 悩むスミオにクサビが飄々と声をかけた。同じ調子てクサビは校長と教頭に向かって、
「ちょいとシモヒラアヤメが死んだっていう美術室を見せちゃくれねぇかな?」
 と言った。

 雑務が貯まっているという校長を職員室に残して、スミオ、クサビ、教頭の三人で校舎の三階へ向かう。体重をかけるたびにキイキイ悲鳴をあげる階段を上って、目の前の部屋が美術室だった。美術室の扉のそばには盛塩が盛られてあった。シモヒラアヤメ、ナナミケイ、ソノダユリコ、このままだと学校中が塩まみれになるのも時間の問題かもしれない。この学校では人が死に過ぎている。
 教頭が美術室の鍵を開けた。
「鍵はいつも閉めてるんですか?」
「閉めてます」
 教頭が答える。
「管理は?」
「職員室の鍵置き場に下げております」
 美術室の扉が開かれる。ずっと閉め切られていたせいか、熱がこもっているかのようだった。それと共に油粘土を思わせる臭いが鼻をついた。
 美術室は教室二つ分の広さで、長机が四つ、椅子を机の上にあげた状態で窓際に寄せられていた。
「一応、シモヒラ先生が無くなったときと同じ状態です」
 スミオとクサビの心を読んだように、教頭が説明した。
「カンバスなどは片づけてしまいましたが」
「シモヒラアヤメは無くなる直前まで絵を描いていたんですか?」
 スミオが問うと、教頭は、
「ええ、そのようです。片づけたのは私です」
 と、首を縦に振った。それから床を指さした。床のフローリングの目地には、ところどころに色彩の痕跡が残っていた。
「苦しかったのでしょう。絵具が散らばって………片づけたのは私です」
「あれは?」
 クサビが窓を指さす。椅子の足に隠れて分かり難いが、隅の方にひび割れが見て取れた。さらに近づいてよく見てみると、外側からガムテープで応急処置が施されているのが見える。
「あれは………ああ、思い出しました。シモヒラ先生が死ぬ直前に、野球ボールが飛び込んできたみたいで」
「野球のボールですか」
 スミオが窓際の机に手を突いて、背伸びして外を見る。木造校舎にはベランダは無い。そのままグラウンドが見下ろせた。
 三階からこの高さまで届くとは結構な強肩だな。
 スミオが心の中で感想する。
「そうだ、ソノダさんもガラスが割れる音で戻って来たんだ」
「戻って来た?」
 と、スミオ。教頭の言い方には、含みがあった。
「思い出してきましたよ、刑事さん。あの日はこの廊下をちょっと行ったところで、化学の実験に使うはずだったアンモニアの瓶を誰だかが割ってしまいまして。確か午前中のことだったと思うが、やっぱり放課後になっても臭いが残ったみたいで、生徒で手分けして窓を開けていたんですよ」
「アンモニアを割ったという生徒は?」
「それはちょっと分からないですね」
「時間割はどうだ?」
 クサビが言った。
「それなら職員室で紹介できると思います」
「よし、戻るぞスミオ。ここは暑くてかなわん」
 そう言ってクサビが額の汗を拭う。
 職員室へ戻る。教頭が紹介したところによると、
「その日、午前中に化学の授業があったのは一年一組ですね」
「ナナミケイも確か一年一組だったな」
 と、クサビ。
「具台的に瓶を割ったのは?」
 スミオが訊ねると、教頭は申し訳なさそうに、
「さすがにそこまでは把握しきれてませんで」
「窓を割ったのは誰だ?」
 クサビが質問する。
「それなら分かります。校内でそういった事故があった時は、記録を付けますんで」
「アンモニアの瓶を割ったのは記録しないのか?」
「それは授業中の事故で、教師の責任ですから」
 教頭がまた別な台帳を持ってきて調べたところによると、
「カワイ………ユカさんですね。二年三組の」
「よし、カワイユカの家の電話番号と住所を調べて寄越せ」
 クサビが言った。
「テツさん? もしかして」
「そのもしかしてだ。次はカワイだ」
「根拠は?」
「己のカンだ。どう思う?」
「素敵です。俺のカンも言っていいですか?」
「いいぞ」
「アヤメは三人の女子生徒に殺されたんですね?」
 スミオの言葉に、クサビは嬉しそうに笑った。
「いい線行ってるじゃねぇか」

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