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戦艦探偵・金剛~シルバー事件23区~ TRANSMITTER #1 MOON RIVER②

同日、午後二時、八王子市、多摩川の河川敷

 クサビとスミオは河川敷に車を停めて、煙草休憩をしていた。
「暑いなちくしょう」
 クサビは助手席のシートを倒して、ほとんど昼寝状態だった。
「ですね………」
 数日前までは天候も崩れていて、曇りや雨で気温も下がって秋模様だったのが、今日は真夏日に逆戻りだった。照り付ける日差しに、街の景色が陽炎となって揺らいでいた。
 スミオは手帳を取り出した。既に回った住所には、ボールペンで線が引かれている。ここまでで回れた住所は五件。地域を絞ったつもりだったが、それでも時間がかかりそうだった。例に漏れず、この五件の家出少女は既に家に帰っているか、そもそも顔が違うかのどちらかだった。
「あとどんくらいだ。もう半分くらいか?」
 クサビが身を起こしてスミオの手帳を覗き込んだ。
「なんだ、あと十五件もあるのか」
「これでも氷山の一角ですよ。ナカさんが用意してくれた書類は二百枚ほどありましたから」
「二百枚だと!」
 クサビは脱力してシートへ再び身を伏せた。
「無理だな。二百枚何てとても、とても、とても………」
「ですねぇ」
 スミオは同意して、
「一課の応援があってもちょっと厳しい数字です。やっぱ捜査本部を設置して貰わないと無理ですよ」
 捜査本部が設置されれば、所轄署の職員や警視庁の捜査官が呼ばれ、人手も一気に増員することが出来る。そうなれば二百件の聞き込みなどすぐにでも終わらせることが出来るだろう。ただ捜査本部の設置は数日間の初動捜査を経て、犯人の特定がなされない場合に行われた。だからそれまでは、こうして出来る限り頑張る他ない。
「でも今回はちょっと時間がかかるかもな」
 クサビが言う。
「遺体は八王子の河川敷で発見されたが、そこはあくまで遺体の流れ着いた場所だ。現場じゃねぇ。遺体は上流から流れて来た。多摩川の上流を辿って行けば、高月町で秋川と合流する。その前には多摩川は昭島市の市域に入っている。更に上流はあきる野市の市域だ。管轄の調整が難しい。それに捜査範囲も広くなる。まぁ、県境を挟んでいないだけマシだがな」
「ふぅん、そうすか」
 スミオはそう言って煙草の灰を窓の外から落とし、
「やっかいですね」
「まぁな。だいたい、八王子で多摩川に接触しているのは遺体の発見された平町と、さっき言った高月町しかねぇ。狙ってやったとしたら犯人も相当なタマだぜ」
「本当に捜査攪乱のため?」
 スミオは社内の灰皿に吸い殻を押し込んで言った。随分捨ててないから、煙草のフィルターが剣山のようになっていた。
「まさか、それはねぇだろ」
 クサビが否定した。
「川の流れ何て気まぐれなもんだ。どこに流れ着くかなんて分かったもんじゃねぇ」
 フゥー、とクサビは窓の外へ向かって煙を吐き出すと、
「それで次の住所はどこだ? 遠いのか?」
「そこそこってところですね。ここから西の方、雛代町の四丁目」
「よし。行くか。二百、いや百九十五分の一の確率を確かめによ」
「はい」
 スミオが車のエンジンをかけた。

「間違いありません………うちのケイです!」
 写真を手に、下駄箱の上に覆いかぶさるように夫人が泣き崩れた。それを見てスミオとクサビは、あまりのことに驚いて固まってしまった。
「まっ、間違いありませんか?」
 スミオが思わずどもってしまう。
「百九十五分の一を当てちまったよコイツ」
 クサビも思わず感嘆の声を上げる。
「ケイは今どこに?」
 夫人が下駄箱に顔を伏せたまま訊ねた。
「娘さんは今、剖検で大学病院に搬送されています」
 スミオが時計を見る。二時十五分前。河川敷で遺体が発見されてから解剖し、医者が所見を終えるまでには十分な時間だ。どの道、今日の聞き込みが終わったらスミオとクサビも向かうつもりだった。
 スミオがクサビへ目くばせすると、クサビも無言で頷いた。
「では、これから我々と同行していただけますか? 出来れば娘さんの生前の写真がお借り出来れば助かるのですが」
 スミオは夫人が落ち着くのを待ってから、写真を持ってきてもらった。クサビは夫人を車の後部座席に案内し、隣に座って慰めるように背中を摩っていた。
 夫人の名前はナナミユキと言う三十七歳の専業主婦である。クサビが夫人を慰めつつ聞き出したところによると、夫は化学工場に勤める会社員で、出張で明日まで戻れないのだそうだ。娘を最後に見たのは一昨日の朝で、外へ出て行ったきり帰ってこないのだという。
 警察が捜索願を受理したのは昨日のことであったが、娘は元々反抗的なところがあり家でもしょっちゅうだったらしい。一昨日も些細なことで両親と喧嘩したので、ほとぼりが冷めるまで友達のところに泊まっているものだと思ったらしい。ところが学校や友人に問い合わせても、娘が学校に出席している様子もなく、友人宅に泊まっている形跡もない。これは何だか様子がおかしいと感じたユキ夫人は、それで昨日の夜にようやく警察へ捜索願を出した次第である。
「でも、まさかこんなことになっているなんて………」
 泣きじゃくる雪夫人に、クサビは優しく、
「落ち着いて下さい奥さん。何があってもアンタのせいじゃありませんって」
 と、声をかけるのだった。
 その後、スミオとクサビ、それから夫人の三人は八王子の大学病院へ赴いた。夫人の持ってきた娘の写真と、彼女自身の証言から、やはり被害者は地元の公立高校、雛代高校へ通う高校一年生のナナミケイであることが判明した。
「それで解剖の結果は?」
 クサビは解剖室の戸を閉め、遺体のそばに佇む解剖医と、手帳を広げて待つスミオを交互に見て言った。クサビは泣きじゃくる雪夫人をケイの遺体から引きはがし、廊下の椅子に落ち着かせて、後を看護婦に任せたのだった。
 解剖医はカワバタリレイという名前で、七三分けの髪を整髪料で固め、ちょび髭を生やした体格のいい男だった。スミオとクサビとも何度か面識があって、遺体の置かれた部屋にもかかわらずどこか気安い雰囲気があった。
「直接の死因は後頭部の一撃です。即死でしょう。防御創が見られないことから、背後からいきなり襲われたものと考えられます。その他の傷は生命反応が見られないため、あとからつけられたものと考えられます」
「死亡推定時刻は?」
「昨日の午後五時から今朝にかけて。少なくとも死亡して二日以上は経過していません」
「凶器は?」
 そう言われて利礼は腰に手を当てて、
「何とも言えませんね。こんなのは初めてです。始めはアイスピックか千本通しか何かかでやったと思いましたが、それにしては傷口が大きく、ズタズタで、深すぎる。それに人間の力では不可能な深さの傷もあった。ちょっと考えられないけど、もしかしたら―――」
「もしかしたら?」
「銛………のようなもので刺されたのかもしれないねぇ。それなら傷の深さにも説明がつく」
「銛………ですか」
「まぁ、銛といってもちっちゃな銛だけどね」
 スミオは手帳に『モリ』と記入しながら、漁船で銛を手にする漁師を想像した。利礼が訝しむのも分かる。そんな大きなものを凶器にしたら、人目につきすぎる。
「強姦された形跡は?」
 スミオが問う。
「ありません。ただ―――」
「ただ?」
 クサビが怪訝そうにたずねると、解剖医が銀色の台の上から、透明なビニール袋に入った血塗れの紙片を二人に見せた。
「何だこりゃ?」
 クサビが首を傾げた。
「被害者の潰された左目に押し込まれていたものです」
 解剖医が説明した。
「左目が潰されたのは生前? それとも死後ですか?」
 スミオが訊ねる。
「生命反応も見られませんでしたし、状況的にも死後だと考えられます」
「文面を拝見しても?」
「どうぞ」
 スミオは解剖医からビニール袋を受け取って、紙片を改めた。
「どうだスミオ、何が書いてある?」
 クサビが横から覗き込む。
「えーと」
「何だ?」
「こう書いてありますね。『過去ヲ殺ス』」
 スミオがそう言った瞬間、クサビは、
「ナヌ!」
 と驚きの声を上げて一瞬、体を震わせた。よほどショックが大きかったのだろうか、二、三歩よろめいて、踵を解剖器具が乗せられた台にぶつけてしまった。
「テツさん?」
 今度はスミオが驚く番だった。スミオの知る限り、クサビがこんなにショックを受けるのを見たのは競馬で五万円を一瞬ですった時以来のことだった。それ以外で、例えば仕事中にここまで動揺を見せたことは無い。どんなに酸鼻を極める現場でも、過酷な状況でも、口先では弱音を吐くが飄々と立ち向かっていくクサビが、こんな簡単な一行にショックを受けること自体、スミオにはショックだった。解剖医も思わず口を開けてクサビを見ている。彼にとっても、こんなクサビは初めてのことらしい。
「大丈夫ですか?」
 スミオがクサビに声をかけると、クサビは、
「ああ、悪い」
 と、解剖器具の台を元の位置に戻しながら呼吸を整えて、
「それで、他には何が?」
「いえ、これだけです」
「そうか」
 クサビはそう言って、
「他にガイシャの体から出たものはあるか?」
「いえ」
 解剖医が首を横に振る。
「それなら、その証拠は己らが直接鑑識に持って行こう」
「ええ、そうしてくれると助かります」
「署に戻るぞスミオ」
「は、はい」
 クサビの発する剣呑な雰囲気に押されるように、スミオは紙の入ったビニールを持って解剖室を後にし、通路で待っていたナナミユキを連れて八王子警察署へと戻った。
 外はもう夕方になっていた。オレンジ色の光に照らされながら、雪夫人を後部座席乗せて、クサビが助手席に座り、スミオが運転席に乗って八王子署へ向かう。
 スミオは解剖室でのことについて、クサビに問いただしたい衝動に駆られたが、ユキ夫人のいる手前でそれは出来なかったし、そうでなくともクサビ自身も貝のように口を閉ざしたまま、窓の外をぼんやりと見ていて、とても答えてくれる雰囲気では無かった。
 全く何なんだよ。
 車が赤信号で停止したとき、スミオは煙草を吸いたい衝動に駆られたが、気落ちしているユキ夫人に向かって、
「煙草いいですか?」
 何て言える雰囲気でもなかったので、ひたすらに耐えるしかなかった。クサビが吸い始めたらそれに乗じて吸ってしまおうとも思ったが、クサビはクサビで、やはり相変わらず窓の外を見つめてぼんやりとしている。何だか八方ふさがりになったような気分で、スミオはむっつりとした気持ちになりながらひたすら車を警察署へ向けて走らせるしかなかった。

 署に辿り着いたスミオとクサビは、刑事課のオフィス近くにある談話室へ雪夫人を座らせてあらためて詳しい事情聴取を行うことにした。するとクサビが、
「ハチスカがいるならハチスカに任せちまえ」
 と、スミオに耳打ちする。別に事情聴取をさぼりたいわけではなく、心情的に弱っている被害者遺族には、女性であるハチスカが適任だろうということのようだった。
「わかりました」
 スミオがそう言って刑事課のオフィスを覗くと、運よくハチスカが報告書らしい書類を片づけているのが見えた。
「ようハチスカ」
「あら、スミオ。どうしたの?」
「事情聴取頼めるか?」
「私、今、報告書を作ってるんだけど」
 そう言ってハチスカがしかめ面を作った。
「それが今朝話したホトケの母親なんだ。当然だが、とてもショックを受けている。俺らよりもハチスカの方が適任だと思って」
「ホトケって、例の十五歳くらいの女の子?」
「高校一年、今年入学したばかりだそうだ」
 そう聞くとハチスカは物憂げな表情で下を向いた。それから、
「仕方がないわね。一個貸しよ?」
「頼む」
 ハチスカがペンを置いて刑事課のオフィスを出ると、入れ替わりでクサビが入って来た。
「よし、オヤジのとこへ行くぞ」
 クサビが部長のオフィスの方向を指さして向かった。スミオは『過去ヲ殺セ』の謎が解けるのを期待しつつ、
「はい」
 と答えてその後を追った。

 刑事部部長、寿進二は二人の報告を最後まで静かに聞き終えてからこう言った。
「二人共よくやった」
 寿の空手で鍛え抜かれた肉体と、昼でも夜でも外さないサングラス、どっしりと構えた姿勢にスミオはいつも圧倒されてしまう。誰彼構わず毒舌を吐くクサビですら、寿には頭が上がらない様子だった。元々二人は八王子警察署に配属される以前、警視庁時代から上司と部下の関係であり、戦前、戦時中、戦後を問わず共に戦い抜いた中らしく、そんな二人の間には誰も割って入れない雰囲気があった。
「はい」
 スミオが寿のねぎらいに短く返事した。一方、クサビは落ち着かない様子で、
「オヤジ、覚えてますか?」
 と言った。スミオには何のことやらさっぱり分からなかったが、寿の方は得心した様子で首を縦に振り、
「ああ」
 と答える。
「忘れもしない。あの事件だな」
「あの事件です」
「どの事件なんです?」
 たまらずスミオが口を挟んだ。
「テツ、話してやれ」
 寿が煙草に火を点けながら言った。スミオも煙草に火を点けたい衝動に駆られるが、寿のオフィスで煙草を吸っていいのは、寿だけだった。
「どの道、皆が知ることになる。話を整理するためにも、ここは一度スミオに話しておくべきではないか?」
「そうっすね・・・・・・・・・」
「永い話だ。そっちへ移ろう」
 寿は二人をソファーとテーブルの方へ座らせた。
「だが正直、二十年も前のことだ。俺も詳しい部分までは覚えてねぇ」
 クサビが頭をかいて言うと、
「だいたいで構わん。正確なところは後で記録を掘り起こせば済むことだ。己も出来る限り補足する」
「助かります」
 へへっ、と笑うと、クサビは二十年前に起こったという事件について語り始めた。
 ここでクサビが語った内容を記しても、慣れていない者には話の内容があっちにいったり、こっちにいったりで、さっぱりだろう。従って下記に記すのは、クサビの話に加えて、寿の補足が加わったものをスミオなりに要約してまとめたものである。
 事件の始まりは二十年前の一九三〇年代後半、十二月に起こった。東京市長である石原誠が通勤途中に殺害された。同時に石原と何らかの癒着があったとされる企業、澄川コープの社長、八柳真も自宅で他殺体で発見される。二人ともところどころ体を抉られて死んだ上に、死後に右目を摘出されて紙片が埋め込まれていた。その紙片には、
『過去ヲ殺ス』
 と書かれていた。
 被害者の地位が高かったことと、猟奇的な犯行内容から事件はかなりセンセーショナルに報道されたという。当時、警視庁で捜査に当たっていた寿とクサビは、利害の対立する暴力団の犯行と睨んで一年余り捜査を進めたが、めぼしい手掛かりを得ることが出来なかった。
 しかしそのほぼ一年後、謎の暗殺者は再び姿を現す。
 やはり十二月の冬、司法省の次官である畑幸雄が料亭のトイレで刺殺体で発見された。畑幸雄は事件直前に判事である木村隆俊を更迭しており、更迭の理由が畑幸雄の親族が経営する企業の不正にかかわる者であったため、前年の事件の模倣犯かと思われたが右目に埋め込まれた紙片の筆跡が一致したことから同一犯である可能性が高いと判断された。
 同月、東京湾近くの港で五人の少年の遺体が発見される。

 五人とも、凶器の特徴が一致した他に右目に紙片が埋め込まれていた。クサビが捜査を行った結果、この五人は十七歳の少女を誘拐し、監禁・暴行を加えて仲間内の一人の自宅庭先へ遺棄したことが判明した。
 この二つの事件では、共通して現場付近に白い上着を来た男の存在が目撃された。
 再び翌十二月、世間の予測通り再び謎の暗殺者は再臨する。そのころには冬の訪れと共に現れるこの謎の暗殺者を、マスメディアは『絶対零度の天使』と名付けていた。
 この『絶対零度の天使』は当時、新興宗教『精神真理教会』の教祖である佐藤俊樹代表を教会で暗殺した。その後の捜査で精神心理協会が、信者の産児制限や毒物を用いたテロ行為を真理追及化策として行う予定だったことが明らかになる。
 ここに来て『絶対零度の天使』は世間にとってダークヒーロー的な性格を与えられ、そのシンパによる模倣犯罪が多発するようになっていった。開戦前夜における社会情勢の不安も、これに拍車をかけ、東京市はある種の狂騒状態であったという。
 しかし何事にも終わりが来る。
 更に翌年の十二月七日、東京都制案委員会に所属する衆議院議員たちが暗殺された。衆議院議場前で院長を務めていた中根銀二が殺害、それから次々と議員たちが襲われた。
 白昼堂々、政府の中枢へ襲い掛かったこの事件では、さすがの『絶対零度の天使』も逃げきれずに確保されることとなる。
 それでも数人の犠牲者を出し、その犠牲者が全員白髪の高齢者であったことから事件は影で『シルバー事件』と名付けられた。一連の事件を起こした犯人はその名が『ウエハラカムイ』と判明し、その名前を持って『絶対零度の天使』に対する熱は、急速に冷めていくこととなる。

「ウエハラカムイはその後どうしたんです?」
 スミオが質問する。
「もちろん、事情聴取、起訴、裁判、お決まりの流れだ。だが事が事だけに色々と難しくてな」
 クサビが言うと、寿も吸い殻の火を灰皿でもみ消しながら、
「最終的には衆議院議員も暗殺された。他国の関与も疑われたんだ。ウエハラカムイの存在は、その時点で警察の手を離れていた」
「常識的にはそれだけの事件を起こせば死刑では?」
「そうはならなかった。最終的に強度の精神症との判定を受けて病院に収容されたはずだが」
「強度の精神症?」
「カムイの身柄は我々が聴取する前に、すぐに公安警察に引き渡された。噂ではそこに外事警察、軍部も介入したと聞く。カムイの精神症が元々なのか、あるいは奴らの尋問によるものか、あるいは何らかの取引があったのか。今回の事件を洗うなら、まずは奴が収容された病院を当たるのが先決だろう」
「なら早く………」
 スミオの言葉に、寿は微笑みを浮かべて、
「焦るなスミオ。その作業はモリカワに任せよう。お前らには現場で動いてもらう」
「情報収集は一課、現場は二課、いつも通りですね?」
 クサビが言うと、
「そうだ」
 寿はニヤリと笑った。
「最後に一つだけいいでしょうか」
「なんだ?」
「カムイは本当に単独犯だったんでしょうか?」
「少なくとも衆議院を襲ったときの奴は一人だったな」
 クサビが答えた。その口ぶりにスミオは違和感を覚える。
「テツさんも現場に?」
「ああ、なんてったってカムイを現行犯逮捕したのは俺なんだからよ」

 ここで一度事件の状況を整理しよう。
 八月三十日、午前六時十七分、付近の住民が少女の遺体を乗せたボートが川岸に流れ着いているのを発見する。遺体は衣服、所持品を身に着けておらず、背中には無数の刺し傷があり、右目には『過去ヲ殺ス』と書かれた謎のメモが発見された。
 遺体の身元はナナミケイという、八王子市内の高校に通う女子生徒であることが判明した。また、犯行の手口から、二十年前に発生した『シルバー事件』の犯人、ウエハラカムイの仕業であることが推定される。
 被害者の身元と犯人の目星がついたことは、遺体の発見状況から考えると幸運であると言えた。
 しかしまだ謎が残っている。
 まず犯行現場が特定されないこと。
 次にどうしてウエハラカムイが再び現れたことについてだ。
 多摩川は遺体の流れ着いた河川敷から上流へさかのぼっていくと、丁度、昭島市拝島町と、八王子市高月町の境のところで秋川と合流する。少なくともそこまで貸しボートはなく、遺体はそこから更に多摩川か、もしくは秋川の上流で流されたと考えられる。
 捜査をかく乱するために、被害者が殺害された後で上流へ運ばれ、ボートで流されたとも考えられる。だがこれは遺体はボートに乗せられた形で死後硬直をしていたこと、死斑の状況、遺体に引きずったような跡が見られないことから可能性は低かった。つまり被害者はボート、ひいては川の近くで殺されたと考えられた。だから単純に川沿いを遡行していけば、おのずと犯行現場に行き当たる。もしかすると、ボートの盗難届が出されるかもしれない。
 見通しは明るそうだったが、前述したとおり多摩川上流には秋川との合流点がある。川の上流で犯行現場らしい場所をしらみつぶしに探すのは極めて骨が折れそうだった。刑事課だけでなく、地域警官の動員が必要になるだろう。
 次にウエハラカムイについてだが、まずクサビによって逮捕されたカムイがどうして犯行を行え得るのだろうか。
 寿の命令を受けたモリカワは、それを確かめるために、まず八王子医療刑務所へ電話をかけた。強度の精神症という判定が下っているのなら、東京ではまずここに収容されるとみて間違いない。受刑者の照会を要請して一時間後、モリカワが刑務所から電話を受ける。
 するとカムイは現在、八王子医療刑務所に収容されてはいないのだという。
「ではどこに?」
 モリカワが訊ねると、電話口の刑務官は、
「行方不明です」
 と、答えた。

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