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戦艦探偵・金剛~サーバルの濡れ衣~②

 午前九時過ぎに東京駅から電車で中央本線に乗り、新宿から京王線へ乗り継いで高幡不動駅を下り、タクシーを拾って多摩動物公園に辿り着いたのは十一時頃だった。金剛と五月雨、そしてかばんちゃんは事件の起こったアフリカ園はサーバルの檻へと向かった。
 事件のせいだろうか。多摩動物公園は門に『臨時休業』の白地に赤い文字の看板を掲げて閉園していた。
「あれ? 閉園してますね?」
 五月雨が言うと、かばんちゃんが、
「はい。事故があったので、警察の捜査の為と、警備体制の見直しで昨日、今日は臨時閉園になっているんです」
 と答えた。すると門のところに、丁度、今来たところらしい子供連れの親子がいた。父親は臨時閉園の看板を見て、
「ああ、今日はやってないよ。だからこんなに空いてるんだな」
「でも今日は開園って広告には書いてあるよ?」
 母親が言うと、父親は、
「だから臨時なんだろう」
「どうぶつえん、やってないの?」
 まだ小学校にも上がってないような小さな女の子が、切ない目で父親を見る。
「そうみたいだね」
 父親が言うと、女の子はほっぺを膨らませて、
「やだ! どうぶつさんみたい! みるまでてこでもうごかないぞ!」
「難しい言葉を使うようになったな………しかたがない、ちょっと遠いけど上野動物園まで行こうか」
 傍から聞いてみれば微笑ましい親子の会話に聞こえるだろう。事実、金剛と五月雨はやんわりとした気持ちになったが、ふと金剛が見るとかばんちゃんの表情は暗かった。飼育員からすれば、来園を楽しみにしていた客をがっかりさせて申し訳ない気持ちになっているのだろう。しかも原因が自分の担当する動物の檻で起きた事件とあれば、なおさらである。
「さっ、いくネ、カバンチャン」
 金剛に肩を叩かれた拍子に魂が戻ったのか、
「は、はい!」
 と、かばんちゃんは二人を園内へ案内した。
 金剛と五月雨は、まず園長に挨拶へ行くため中央管理棟へと向かった。そもそも園長はかばんちゃんを金剛探偵事務所へ行かせた張本人であり、本来の依頼主と言っても過言ではない。現場を捜査するため、そして契約書にサインをしてもらうためにも一度、会う必要があった。
 園長と言うからには専用の部屋でふんぞり返っているものと金剛は考えていたが、意外にも園長の部屋は他の飼育員と同じ部屋で、デスクを並べて仕事をしていた。と言っても他の飼育員は全て動物の飼育のために出払っているらしく、園長は広い部屋の中で黙々と書類仕事をしている。
「園長、金剛さんたちを連れてきました」
 すると園長は本や書類の並んだ机からひょいと顔を上げた。園長は二十代後半らしい女性であった。髪は肩を越すほど長く、頭の上で白いリボンによってある程度まとめられていた。外見に頓着しない性格のか、あるいは地毛なのか分からないが髪にはくせがついていて、あまり櫛を通していないようだった。服装は紫色のシャツに洒落た黒いサブリナパンツを履き、その上から白衣を羽織っているところをみると飼育員と言うよりは獣医か学者のように見えた。
 いや、学者カナ? 彼女が獣医なら『トナカイの出産に獣医を呼んだ』はずはないネ。
 金剛はそう考えながら、園長の下へ歩み寄る。
「はじめまして、金剛デース!」
 そう言って金剛が握手を求めると、園長もこれに応じて、
「はじめまして、私はここの園長をしている加古初美と言います」
「こっちは助手の五月雨デース」
「はじめまして、五月雨って言います」
「ああ、どうぞはじめまして」
 五月雨と加古園長が挨拶をしている間に金剛は素早く加古園長の机の脇にある棚を盗み見た。そこには大学の動物学博士号の証書が無造作に置かれていた。
 ふむ、やはり学者の方ネ。
 それから何食わぬ顔で加古園長の方へ向き直り、
「カコ=サン、だいたいの事情はカバンチャンから聞いたネ。しかし、あなたの口から直接お聞きしたいことがいくつかありマース」
「はい、どんなことですか?」
「死んだアンジロー=サンのことについてです。彼はどんな人物だったのデスカー?」
「はい。ちょっと朴訥でしたけど、真面目な方でしたが」
「出身はどこか聞いてるネ?」
「ええ、職員名簿を作るときに住所から経歴まで書かせましたから」
 それによると瀬留里安次郎の経歴は以下の通りである。

 安次郎は元々、東京の生まれであるが幼い頃に両親と共に中国の方へ渡った。ところが安次郎が十四歳のときに両親が流行り病で死亡し、本土へ引き揚げたという。
 本土に引き上げた彼は、引き揚げ船に偶然乗り合わせた男性と親しくなり、そのつてで岩手県の牧場に住み込みで働き始めた。しかし四年後、牧場の経営が破綻して職を失った彼は、故郷である東京へ戻ることになった。動物の世話をしてきた彼は、その能力を東京でも生かそうと、上野動物園へ就職したのだという。

「この多摩動物公園の開園に際して、新しい職員を育てるのに各地で半年から一年の研修を受けさせていたのだけれど、安次郎くんはベテランだからみんなをもっと引っ張って欲しかったのに」
 加古園長がそう言って、残念そうに机の一つを見た。雑然とした机の中で、それだけが綺麗に整理整頓されて、机の真ん中に丸い焼香台と男の写真が黒縁の写真立ての中に飾られていた。どうやら、あの机が安次郎が生前使用していたものらしい。安次郎はあまり写真を残さなかったようで、集合写真を大きく引き伸ばしたものが使われていた。
「園長さん!」
 金剛が言った。
「アンジロー=サンを襲った本当の犯人、そしてサーバルの無実は私が必ず証明してみせマース! 戦艦に乗ったつもりで安心していてヨ!」
 金剛の頼もしい言葉に、かばんちゃんと加古園長が感動したように顔を輝かせていると、すかさず五月雨が、
「ああ、いけない」
 と、自分の鞄から契約書を取り出して加古園長に渡す。
「仕事の前にこれに署名と印鑑を下さい」
 五月雨はそう言って経費と契約料など諸々の注意を説明した。
「わかりました」
 と、加古園長は契約書を一通り読むと、サインと印鑑を押した。
「では、これで契約成立です」
 五月雨は丁寧に契約書を封筒に入れて鞄にしまう。
「さて、早速ダケドまずはサーバルの檻を調べるネ。カバンチャン、案内するデース」
「はい」
 かばんちゃんは頷いて、
「園長はどうしますか?」
「私も行きたいところだけど、まだ仕事が残ってるし遠慮しておくわ。何か分かったら知らせて頂戴ね」
 そう言って園長は自分の机に戻った。
 かばんちゃんは金剛と五月雨を連れて、部屋の入口のところにあるサーバルの檻の鍵を取って部屋の外へ出た。
 サーバルの檻は動物公園の入り口から真っ直ぐ進んで、最初の交差点を右に進んだところにあった。一口で言うと簡単だが、上野動物園の敷地面積の約四倍と言う数字はだてではなく、金剛と五月雨は結構な距離を歩くことになった。夏日の炎天下と言うこともあり、これはかなりの苦行となった。
「こんなに歩くと、奥の方にある動物を見に行くのも大変じゃないですか?」
 五月雨が思わずこぼすと、かばんちゃんは、
「ええ、ですから普段は園内でシャトルバスが運行しているんです。今日は休園ですからお休みなんですけどね。飼育員だと、自転車を使ったりもします」
 と、答えた。言われてみれば道幅はかなり広く、車線も引かれている。五月雨はてっきり資材搬入用の車両が使われるものと思っていたが、かばんちゃんの話からすると普段から頻繁に車両の往来があるようだ。
 近くに池がある交差点を右に曲がって、三人はアフリカ園と呼ばれる区画に向かった。文字通り、この区画ではキリンやアフリカゾウといった、アフリカの動物を展示しているという。サーバルの檻は入って右端にある、チーターの檻のとなりに位置していた。
「あれです」
 かばんちゃんが檻の中を指さした。確かに彼女が言う通り、サーバルは体長百センチほどの大きさで、猫より一回り大きいという程度である。毛皮は黄色い地毛に黒いつぶつぶがあり、ヒョウよりはチーターによく似ていた。耳は大きく、半楕円形の形状をしている。金剛はイメージからてっきり、ヒョウやチーターのような顔を想像していたが、サーバルの顔立ちはそれらよりももっとマイルドで、やはりほとんどイエネコに近いものだった。
 サーバルの檻の中は、出来るだけ自然の状態に近づけようとしているせいか小さな木や草が生えていた。また、運動不足解消のためか、平均台を高く、大きくしたような木のオブジェが檻を横断するように三つ連なって設置されている。金剛と五月雨が来た時、サーバルは草むらで寝そべっていたが、二人の姿に気が付くと高さ二メートルほどの台の上へ逃げるように跳躍した。どうやらサーバルは相当なジャンプ力を持っているらしい。更に飛び上がるときに見せた体は細く、長く、しなやかで、モデルのような美しさがあった。金剛と五月雨は、世の中にこんな動物がいたのかと、少しだけ見惚れてしまった。
「こっちです」
 かばんちゃんがサーバルの檻の横にある従業員通路へ続く金網の扉の鍵を開けた。その声で金剛と五月雨は我に返り、かばんちゃんの後に続いて通路へ入った。かばんちゃんの持つ鍵は、鉄の輪に鍵が何本か繋がって束になっており、鍵のかかった扉がいくつもあることを示俊していた。
 従業員通路はコンクリートの床だけで壁も天井も無く、サーバルの寝室の小屋や檻がある以外は木々が広がっているばかりで、どことなく家の裏庭といった雰囲気を醸し出していた。
 かばんちゃんがサーバルの寝室の小屋の鍵を開ける。
「表にある檻へどう行くネ?」
 金剛がたずねる。
「この小屋から専用の出口があります」
「他に出入り口はあるデース?」
「いいえ、ここからだけです」
 かばんちゃんが小屋の入口を開けた。サーバルの体臭らしい、獣の臭いがむわっ、とドアから立ち込める。
 ここで鼻をつまむのも失礼かと思い、金剛と五月雨は一瞬、息を止めてサーバルの寝室へと入った。
 サーバルの寝室は横十メートル、縦四メートル、高さ三メートルほどの大きさで、中央の鉄格子で二つに仕切られていた。こちら側は人間のスペース、向こう側はサーバルのスペースとなっているらしい。サーバルのスペースにはコンクリートに藁が敷き詰められており、隅にはすのこが置かれていた。鉄格子には、床の近くに餌を差し入れるスペースがあって、寝室と言うよりは独房を連想させた。天井は三角屋根になっていて、スロープに窓が付いており、自然光を取り入れて室内を明るくしていた。その他に電球が部屋の四隅についていて、暗い時や夜などはそれを点灯させるのであろうと思われた。
 ここから展示用の檻へ続く入り口は二つあり、一つはこちらから行く普通のドアと、もう一つはサーバルの檻側にある引き戸だった。引き戸は大きな金属製で、鉄格子を越えてこちらまで届いていた。つまりサーバル側の出入り口はここから操作出来るらしい。それを証明するかのように、
「じゃあ、僕はサーバルちゃんを向こうの檻へ入れてきますね」
 かばんちゃんはそう言うと、壁にかかった引綱を手に取って、引き戸を動かしてサーバルと寝室の檻の出口を開けた。無論、それだけではサーバルは檻の中へ入ってこないので、次にかばんちゃんは人間用のドアの鍵を開けた。
 ドアを開けた瞬間にサーバルの頭がにょっきりと顔を出すのではないかと、金剛と五月雨は後じさりする。かばんちゃんはドアを少しだけ開けて外の様子を伺うと、滑り込むようにその隙間からサーバルの檻へ入った。そしてすぐに、向こう側から引綱に繋いだサーバルを連れて檻の中へと姿を現した。その光景は大型犬の散歩させるのとあまり違いは感じない。
「ごめんね、サーバルちゃん。君を助けるためなんだ」
 かばんちゃんはそう言ってサーバルに声をかけるが、サーバルは不満そうに鼻を鳴らした。それでも、かばんちゃんを信頼しているようで、彼女が引き戸を閉めるときにも無理やり出て行こうとはせずに、すのこのところまでトボトボと歩いて、その上に寝転がった。そういう姿はやはり猫である。
「これで大丈夫ですよ」
 かばんちゃんがドアから姿を現す。
「よし、行くネ五月雨」
 金剛は五月雨と共に、サーバルの檻へと入っていった。

 当然ながら、サーバルの檻の中は既に掃除されていて、死体も血痕も残っていなかった。かばんちゃんの話によれば、死体は既に警察の手によって運び出されたとして、血痕の方は付着した土ごと捨ててしまったという。だがかえって、それが新しい土とそうでない土をくっきりと分ける結果となり、現場を見やすくしていた。どうやら瀬留里安次郎の死体は檻のほぼ中央で倒れたようだった。
「アンジロー=サンが倒れていたのはここネ?」
 かばんちゃんが首肯すると、
「どんな風に倒れてたネ? 仰向け? それともうつ伏せデース?」
「うつ伏せです」
「ふむ」
 次に金剛はかがんで檻の中の地面を丹念に調べ始める。
「足跡は………う~ん、たくさんの靴跡で踏み荒らされてて分かりまセーン」
「救急の方も来ましたし、警察の人もたくさん来ましたから」
「シット!」
 金剛は舌打ちして立ち上がり、次は平均台のオブジェ、檻の金網、寝室側にある壁を丹念に調べていくが、芳しい成果は得られなかったようだった。
「ここは駄目ネ。手掛かりがナッシング! 一旦、寝室の方へ戻るヨ」
「そうですか………」
 かばんちゃんが肩を落とす。
「大丈夫ですよ、捜査はまだ始まったばかりです」
 五月雨はそう言ってかばんちゃんを励ました。だが五月雨がそう言った傍から金剛は、
「今回はダメかも知れまセーン」
 と力なく言って、寝室のドアを開けた。
「ふええ………」
 かばんちゃんが涙目になる。
「ちょっと先生!」
 五月雨が非難がましく言うが、金剛はそれを無視して寝室の敷居を跨いだ。
「さてと」
 寝室に戻った金剛はコンクリートの床にかがんで五月雨へ手を差し出し、
「五月雨、ルミノールを頼むネ」
「はい」
 五月雨は鞄から霧吹きを渡した。
「何ですか? ルミノールって?」
 かばんちゃんがたずねる。
「窒素含有複素環式化合物の一つネ。アルカリ性の水溶液に溶けて、過酸化水素水と混ぜると波長四百六十ナノメートルの強い青紫色の発光を示しマース。この発光は遷移金属や金属錯体を触媒として促進されるデース。もちろん、人間の血液中に含まれる鉄分にもネ」
 説明しながら金剛は展示用の檻へ続く入り口から霧吹きを床へ吹きかけていく。それはやがて五月雨やかばんちゃんが立っている場所まで及び、
「はいはい、邪魔邪魔。外へ出てるデース」
 文字通り隅々に霧吹きを吹きかけた金剛は、最終的に自分も外へ出て、自分が立っていた場所にも最後の一吹きをかけた。
「あとは運を天に任せるネ。カバンチャン、上の窓は光が入らないように出来るネ?」
「はい、向こうへ天井へ続く梯子があるので、厚手の布をかければ十分に遮光できると思います。取ってきますか?」
「お願いするヨ」
 かばんちゃんが走り去ると、五月雨は金剛に、
「この事件、本当にサーバルがやってないって証明できそうですか?」
 と、耳打ちした。すると金剛は怪訝な顔をして、
「サーバルがやってないのは明らかネ。まず被害者は顔を食べられていたらしいですが、動物がそんなことをするとは思えまセーン。食べるならお腹や太ももから食べマース。どうしてわざわざ肉付きの少ない顔面を食べるのか理解に苦しみマース。それから被害者はうつ伏せに倒れていたと言いましたが、肉食獣はまず獲物の喉笛に噛み付いて窒息させるデース。すると人間なら大抵、仰向けに倒れマース」
「でも、サーバルの口が血に濡れているという証言はどうなります?」
「五月雨、もしユーが台所で指を切った時、思わずどうするネ」
「痛い! って言います」
「その後ヨ」
「傷を舐めて………あ!」
「そう、サーバルは血を流して倒れている被害者を気遣って顔を舐めていたネ。あるいは好奇心かもしれないデース。例えば牛などは、うずくまった人間を見ると好奇心から近寄って、顔を舐めてきマース」
「じゃあ、安次郎さんは、やはり誰かに殺されたあとでサーバルの檻の中へ入れられたんですね? でも、サーバルが顔を食べたんじゃないとすれば、どうして犯人は被害者の顔に酷いことを?」
「やれやれ、まだ分からないのかネ、五月雨。安次郎は死んでなんかいないヨ。顔を剥がしたのは身元の確認を防ぐためネ」
「えええ!」
 五月雨は驚きのあまりに思わず声を上げて、
「それじゃ、あの死体は誰だと考えてるんです?」
「さぁ? そこが問題ネ。何の証拠も無ければ今の推理も机上の空論に過ぎまセーン」
「お待たせしました~」
 かばんちゃんが黒い厚手のカーテンを小脇に抱えて戻ってくる。
「サンキューネ、カバンチャン」
 金剛はカーテンを受け取り、
「じゃあ、頼むヨ、五月雨」
 五月雨に手渡した。
「ええ? 私ですか?」
「カバンチャンは疲れてるネ」
「先生がやったらいいじゃないですか」
「私がいなくなったら誰が推理するネ。こういう仕事は助手の仕事デース。早く行くデース」
 ぶつくさと文句を言いつつ、五月雨はかばんちゃんに教えられた通り、小屋の横にある階段を上り、更に屋根へ続く梯子を昇って行く。一方、金剛とかばんちゃんは再び寝室へと戻った。サーバルは相変わらず、すのこの上でのんびりとくつろいでいた。
「ケッ、ケッ」
 するとサーバルは突然、げっぷとも咳ともつかない息を吐いた。
 金剛がかばんちゃんを見ると、彼女は心配そうな顔で、
「あの事件以来、あの調子なんです。食欲はあるし、特に他には体調が悪そうな部分も無いので様子を見ているんですが。動物もやっぱり、ああいう事件があると体をおかしくしたりするのでしょうか」
 金剛は再びサーバルの方を向く。サーバルは大きな耳をピクピクとさせながら、じっと二人の様子を伺っていた。
 次の瞬間、小屋の中が暗くなった。五月雨が窓をカーテンで覆ったのだ。突然の出来事にサーバルも驚いて立ち上がる。
 窓を厚手のカーテンで覆っても、今日の日差しは強いようで、目を凝らせば周囲の様子がうっすらと分かる程度には明るかった。金剛はルミノール試薬を吹きかけた床に膝をついて、丹念に調べていく。すると展示用の檻へと続くドアの手前で、青紫色に発光する小さな光を見つけた。
「これは………」
 かばんちゃんが金剛の肩から光を覗き込んだ。
「血痕デース! カバンチャン、事件が発生してから床の掃除はしたネ?」
「いえ、でも、さっき見たときは何の跡も無かったのに」
「血痕と言うものは、現場が焼け落ちない限りは掃除しても完全に消すことは不可能デース。おそらく真犯人がうっかり血を垂らして掃除したデース」
「それじゃあ、あの死体はやはり外部から持ち込まれたんでしょうか?」
「犯人の血痕と言う可能性もありマース。とにかく、サーバルはここへは入れませんから、彼女が付けたものでは無いことは確かネ」
「でも、一体、どうしてサーバルちゃんの檻でこんなことをしたのでしょうか?」
「それは、これから分かることネ。もういいデース五月雨! カーテンを取るデース!」
 小屋の中が再び明るくなる。サーバルも眩しそうに目を細めた。
「これで、サーバルちゃんも無罪と言うことになりますね!」
 かばんちゃんが言うと、金剛は残念そうに首を横に振って、
「そう甘くはありまセーン。ドアの前の血痕では決定力にかけマース」
「ではこれから、どうするのです?」
「簡単デース。真犯人を捕まえればいいのデース!」
 金剛が高らかに言うと、サーバルは、
「ケッ、ケッ」
 と、げっぷとも咳ともつかない息をまた吐くのであった。

 寝室の小屋に残った血痕から、いよいよサーバルの檻にあった死体が人間の手によって殺されたという確信を強めた金剛は、被害者とされる瀬留里安次郎の人間関係を探るため、彼の住所を園長に聞いた。すると安次郎はここから近くにある神奈川県相模原市のアパートに住んでいるらしい。早速、金剛と五月雨はタクシーを呼び、次の目的地へと向かった。五月雨がタクシーの中でメモした住所を広げた矢先、金剛は、
「日野警察署へ頼むネ」
 と、運転手に行き先を伝えた。
「安次郎さんの住所では無いんですか?」
 五月雨が言うと、
「まずは警察からもっと事情を聞くネ。遺体のことも知りたいデース」
 そういうわけで、二人はまず今回の事件を担当した日野警察署へと向かったのである。
 タクシーを警察署の外来用の駐車場で待たせて、二人は警察署の玄関をくぐる。受付で事情を話し、多摩動物公園での事故の担当刑事を呼んでもらう。すると現れたのは、何と軽巡洋艦の天龍であった。
「よぉ、金剛じゃねぇか」
「天龍さん! 警察に勤めるようになったって聞きましたが、まさかここだとは!」
 五月雨が驚いて声を上げるが、金剛の方は至って冷静に、
「ふむ、カバンチャンに私の事務所を推薦したのはユーのようネ?」
「まぁな。ここにノコノコ来たってことは、動物園絡みだろ?」
「イエス!」
「やっぱりな。さて、立ち話もナンだ。こっちへ来な」
 金剛と五月雨は天龍に案内されるまま、二階の応接室へ通された。黒いソファーに腰かけて、金剛は早速、事件について切り出した。
「天龍、動物園の事件について分かったことを聞きたいネ」
「まぁ、そうがっつくなよ。今から資料を取ってくるからさ。麦茶、飲むか?」
「あっ、お願いします」
 五月雨が挙手して言った。外の暑さに五月雨の喉はカラカラで、限界だったのだ。
 天龍が応接室を去ると、婦人警官が二人分の麦茶を盆に載せてやってきた。彼女と入れ替わる形で、脇に資料の束を挟んだ天龍が応接室へ戻ってきた。
「さて、警察が事件をサーバルによる事故と断定した根拠を聞かせてもらうネ」
「というと、そっちはあの飼育員と同じくサーバルの仕業じゃないと考えているんだな」
 あの飼育員とはかばんちゃんのことだろう。金剛が頷くと、
「いいぜ」
 天龍は不敵な笑みを浮かべて言った。どうやら、事故と断定する確たる根拠が警察の側にはあるらしい。
 金剛はそう考えるが、いやしかし、天龍は分が良かろうが悪かろうが万事、こんな調子だったことを思い出して楽に構えることにした。
「まず、被害者の死因だな。解剖の結果、死因は正面からの頚部圧迫による窒息死。頸椎の一部と舌骨に骨折があった。肉食獣ってのは、喉笛に噛み付いて獲物を仕留めるもんだろ?」
「喉に噛み跡はあったネ?」
「残念ながら顔と一緒に首元の皮もズタズタにされていて分からなかった」
「遺体はうつ伏せだったそうネ? 正面から飛びかかられたのなら仰向けになるはずデース」
「ライオンならともかく、サーバルの体は小さい。正面から飛びかかられたなら、振りほどくためにも前かがみになるんじゃねーのか?」
「なるほどネ。では、被害者は抵抗したというわけデース。遺体に防御創(被害者が加害者と争った際に出来る傷。ここではサーバルに負わされた傷を指す)などはあったのデスカ?」
「いや、残念ながらそれは確認できなかった。ただ死後に出来たと思われる小指の骨折だけがあったぜ」
 そう言って、天龍は木の机に写真を並べた。解剖時に撮られたものらしく服は無く、いずれも被害者の遺体の両腕部分を映したものだった。確かに天龍の言う通り、特に傷は見られないが、右手の小指だけが不自然な方向へ曲がっていた。
「防御創が無いなら、サーバルに襲われたとは断定できないデース」
「被害者は酒に酔っていた。ろくな抵抗も出来ずに、前かがみになるのが精いっぱいだったんだろ」
「それほど酩酊していた被害者が、どうしてわざわざサーバルの檻へ行ったネ?」
「酔っ払っていたからこそ行ったんだろ。おおかた、自分の担当のシロテテナガザルかオランウータンと勘違いしたんだろうよ」
「だったらサーバルの鍵を持ち出した理由はなんデース?」
「さぁな、偶然だろ」
「酔っ払った被害者が、理由は分からないが職場へ戻って、偶然サーバルの鍵を手に、間違ってサーバルへ行ったネ? 奇妙な話デース」
 金剛がそう言うと、天龍は、
「ふふん」
 と笑って、
「アンタの考えていることは分かるぜ名探偵、いや、戦艦探偵さん。あの遺体が本当に瀬留里安次郎かと考えているんだろう? 被害者の顔の皮膚は剥がされていて、安次郎が被害者を殺して、自分の替え玉にしたんじゃねぇかってな。ところが警察だって馬鹿じゃねぇ、ちゃんと証拠はあるんだ。人間には指紋ってもんがあるだろ。足もそうだ。こいつは双子だって、それぞれわずかに違う模様になるんだ。俺たちは遺体から指紋を採取して、サーバルの小屋のドアノブや、安次郎の使っていた机の持ち物や、自宅から採取したものと突き合わせた。するとどっちもピッタリ一致するものが出て来たよ。家の方は足の指まで取ったんだからな。サーバルの檻で倒れていたのは間違いなく瀬留里安次郎本人だよ」
 何ということであろう。警察は遺体の身元を指紋と言う確たる証拠から、瀬留里安次郎であることを完璧に割り出していたのだ。そうなると、金剛の唱える遺体の替え玉説が根本から覆ることになる。
「それに俺たちは、事件当日、安次郎が行きつけの飲み屋に行って酒を飲んで帰ったこともちゃんと調べてあるんだぜ」
「ほぅ、それじゃ死亡推定時刻も大分しぼられるネ」
「飲み屋の証言だと、安次郎が店を出たのが午後七時。だから死亡したのはだたい七時から十二時くらいの間だな」
「随分と死亡推定時刻に開きがあるようネ」
「判断基準が死後硬直の進み具合と死斑からしか分からなかったもんでな」
「しかし、天龍さん」
 五月雨が口を挟んだ。
「誰かが安次郎さんの顔を剥がして、サーバルの檻に放置したとは考えられませんか?」
「それは考えにくいな。第一、もし別な犯人がいるとしても檻の鍵の場所を知っているとは思えないし、よしんば鍵の場所をあらかじめ被害者から聞き出したとしても、だったら安次郎の飼育担当であるシロテテナガザルや、オランウータンの檻に放置しておくのが自然だろ。顔を剥ぐ理由も無い」
「うう、確かに」
 五月雨がしょんぼりとする。一方で、金剛は相変わらず表情一つ変えずに泰然自若としていた。その様子に、さすがの天龍も不審に思って、
「何だよ」
 と、たずねた。
「ふふふ」
 金剛は含み笑いをして、
「天龍、私たちはサーバルの小屋の中、展示用の檻のドアのところに血痕を見つけたヨ。綺麗に洗い流されて、見た目には分からなかったケド、ルミノールを吹きかけてばっちり見つけたネ!」
「血痕だって?」
 天龍はそう言って、わずかに眉を曇らせた。五月雨は血痕のことを思い出して、
「そうです、血痕を見つけたんですよね!」
「量は?」
 と、天龍が聞く。
「ほんの二、三滴ネ」
「はん、その程度じゃ、餌の肉から垂れたものかも分からないじゃねーか」
「確かに現状は大海の一滴かもしれまセーン。しかし、こうもいうデース」
 金剛はニタリと笑って、「血は水よりも濃い、とネ」

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