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香菜奮闘記〜パクチーが食べたくて〜

私はパクチーが好きだ。
正確には「恨むほどの嫌い」だったのが「好き」になった。

出会い

あれは10ん年前の中国でのことだった。
観光旅行で訪れる高級飯店ではそれはそれはきらびやかな中華料理が提供された。
火の鳥みたいなニンジンとか、椿みたいな大根ときゅうりとか、手の込んだ盛り付けは「豪華」そのものだった。

その高級な中華料理の面々にもれなく投入されているパクチー。

観光地を歩きまわり空腹状態の身体は、美味しそうなビジュアルを目の前に食指が動きまくっていた。パクチー経験値ゼロの私は、なんの警戒もなく美味しそうに調理されたそれらを口に運ぶ。

「!?・・・・」

目に映る高級料理が、口に運ぶとまずくなるという悲劇に遭遇し、「だまされた」「裏切られた」「恩を仇で返された」と理不尽な苦情を心に挙げ列ねた。

再会

心と味覚に傷をおったパクチーハラスメント事件から数年後、再び中国で食事をする機会が訪れる。この時は観光ではなく語学留学での滞在だったので、食事をするのは高級飯店ではなく大衆食堂や露店などがほとんどだった。

その大衆食堂や露店の食べ物がそれはそれは美味しかった。

火鍋、米線(米の麺の鍋)、焼餅(クレープみたいなの)などなど。
そしてやはり、もれなく投入されるパクチー。

しかし、不思議なことにあのハラスメントは起きなかった。むしろ美味しくてやみつきになった。
洗練された高級料理ではなく、ファストフード的な地元の大衆料理にパクチーが見事にマッチしていたように感じる。

「美味しい」の基準には個人差があるが、その個人の基準自体が変わってしまうのだ。しかも180度変わってしまう。人、場所、環境、あらゆる要素に応じて「美味しい」は常に変容している。

転機

パクチーへの愛情はその後の食事の選択肢を広げ、外食でも自炊でもパクチーを食べる機会が増えた。日本にもパクチーブームが到来し、パクチー専門店なども登場しているほどだ。
一度、スタイリッシュな居酒屋で「パクチーと春菊のサラダ」という、癖と癖のコラボみたいなものを食べたことがあるが非常においしかった。

専門店ができるほどなのだ、パクチーはすっかりおなじみの食材になった、そう思い込んでいた。

パクチーブーム到来から数年後、仕事の拠点を東京から地元(田舎)に移すことになり、そこではじめてパクチーが全然おなじみではない食材であることに気づいた。

どうやらこの地域では、パクチーはアジア料理に欠かせない食材ではないようだ。家族は口を揃えて亀虫みたいな匂いの葉っぱと評す。以前、多国籍料理の店でトムヤムクンを注文したところ、パクチーが入っていなかった。お店の方にたずねるとパクチーは置いてないとのことだった。

パクチーハラスメントを受けたかつての自分を思い出す。あの頃の私にはパクチー抜きがデフォルトというのはありがたいことだったろう。
しかし、今の私にとってはパクチーのないことの方が失望を覚える。パクチーネグレクトだ。

パクチーのないトムヤムクンは、欠乏と自省の味がした。

トムヤムクンに欠かせないパクチー。
その存在が当たり前になっていた自分を省みた。

しかし、パクチーを食べさせてもらえなかったと責め立てたところで、パクチーブームが急に到来することはない。次からは自分で買って料理しよう、そうすれば思う存分パクチーを食べられる。パクチーネグレクトは、自炊を促すきっかけとなった。

そうしてある日、カルディでタイ料理の調理アイテムを入手したので、パクチーを購入すべくスーパーに向かった。

野菜コーナーを見渡す。
もう一度、野菜コーナーを見渡す。

…ない…。

亀虫みたいな匂いの葉っぱは取り扱ってないのだ。
家族に聞いたところ、パクチーが置いてあるスーパーはこの街に1軒だけだと言う。

その唯一のパクチー取り扱い店に行ったものの残念ながら品切れだった。飲食店の人がまとめて買っているのだろうか、はたまたパクチー好きが潜在的に多くいるのだろうか。

スーパーに行けば手に入るパクチー。
首都の暮らしが当たり前になっていた自分を省みた。

陳列棚の空っぽのスペースにパクチーの棚札だけが残っている。
その光景は「そう簡単には手に入らない」という現実を突きつけると同時に、「本当にパクチーが好きなのか?」と試されているようでもあった。

挑戦

飲食店でもダメ、スーパーでもダメ、ことごとく失われたパクチーを食べる機会。
スーパーの陳列棚で絶望していた私の脳裏に、ある知人との会話がよぎった。

「私はパクチーが好きで自分で育ててるぐらい。しかもすごい育ってる。」

そうか、育てればいいのか!
しかも常にフレッシュなパクチーが食べられるなんて最高じゃないか。どうしてこんな素晴らしいことに気づかなかったのだろう。

パクチーガーデン、いやパクチーヘブンを作ろう!

妄想だけで快楽を得たことは言うまでもない。自家製トムヤムクンを作り、庭から新鮮なパクチーを摘んでそれをトムヤンクンに大量に盛っていることを想像した。

絶望に光がさした。人が生き生きする瞬間というのは、妄想だけで十分に生まれるのである。

後日、ホームセンターに行くと、野菜の苗フェアなるものが催されていた。様々な野菜の苗が店頭にずらりと並んでいたが、パクチーはなかった。これは想定内である。私のパクチーメンタルはここまでの間にずいぶんと鍛えられていた。

苗には初めから期待していなかった、問題は種コーナーにあるかどうかだ。
豊富に揃えられた種のパッケージの中から、ついに見つけた。
棚札でもない、妄想でもない、久しぶりの実物、パクチー(種)である。

パッケージの説明書きによると、春に蒔けば夏に収穫できるらしい。夏の暑い日にパクチーたっぷりのアジア料理…。再び妄想だけで快楽を得たことは言うまでもない。

庭の一画を少し掘り、腐葉土を埋め、うねを作り、うやうやしく種を蒔いた。体を動かし、手足で泥に触れるのは楽しくてあっと言う間にパクチー畑が完成した。

苦難

さっそくの苦難である。やはりパクチーはそう簡単には手に入らないらしい。
希望を胸にパクチーの種を蒔いたその日の晩に、近所の猫によって畑が掘り起こされていた。可愛い肉球の足跡と、崩壊したうね。落胆しながらも、ふかふかの腐葉土って気持ち良さそうだもんな、となぜか猫に共感を覚えた。

種がどこにあるのかわからなくなってしまったが、まだ希望を捨てずに再びうねを作り直した。フミフミ防止のネットも設置して、諦めないというパクチーへの想いを示した。

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数日後。

ネットで守られていたはずのうねが崩壊している。もちろん可愛い足跡も一緒に。
フミフミ防止に使用したネットは、ツタ植物の蔦をはわせるためのネットだったので、かなりユルユルでどうやら猫の侵入を防ぐには不十分だったようだ。

ネットを設置してしまったので、畑の復旧がちょっと面倒になった。ネットを強化するか、他の猫よけアイテムを設置するか、なんて考えながらもパクチーへの想いは少しずつ揺らぎ出していた。

そんな私のあきらめモードを察してか、母がパクチーの苗を入手してきてくれた。わたしがパクチーの苗なんてないと決めつけていたホームセンターに実はあったらしいのだ。

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しかし…。
まだパクチーへの道は絶たれていなかったと喜んだのもつかの間。
こともあろうか、母が持ち帰ってきたのはパクチーのそれではなかった。

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せっかくだから良い状態のものをと品定めしているうちに、隣接している別のものを取り上げていたかもしれないと母は推測する。後日同じホームセンターに行ってみたが、パクチーの苗はなくなっていた。

わたしのパクチー熱はいよいよ上昇から下降に変わり、「自家栽培って大変なんだな。」「猫と争わず平和に暮らしたい。」「乾燥パクチーで良いんじゃ。」などと現実逃避が始まる。

鮮やかな期待と共に作りあげた畑は、あっという間に味気ない現実に塗り替えられてしまった。

希望

そして、ほんの数日前のこと。
とても天気が良く心地よい日差しが降り注ぐ中、荒れたパクチー畑をじっと観察してみた。
私の目に飛び込んできたのは、小さな緑の点。さらに顔を近づけてそれが「芽」であることを確認した。

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取るに足らないほどの小さな小さな変化に、心が踊った。
生命を感じることはこんなにも喜ばしいことなのか。その美しく脆い存在は、感動と同時に守らねばという想いを生じさせた。

ゆるゆるだったネットを強化するべく、結束バンドで張りを固定し、猫の侵入を防いだ。
その後、毎日畑に顔を近づけては、まだかなーまだかなーと、となりのトトロのメイちゃん状態。

私のパクチーへの想いはこのまま無事に実るだろうか。これまでの紆余曲折を考えると、今後なにも起きないとも思えない。

無事に実ったあかつきには、トムヤムクンを自分で作って、大量のパクチーと共に喜びを味わいたいと思う。

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