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冷酒 #リライト

「今日もきみの料理は美味しいね」
そう言って微笑むあの人の笑顔が好きです。
こげ茶の大きめの陶器の皿に盛られた肉じゃががホカホカと湯気を立てる。
ヒグラシが鳴く夕暮れに、扇風機の風があの人のシャツの裾をヒラヒラとそよがす。

夕暮れはもの悲しけりと詠まれるけれど、もの悲しいとは、見えていたものが夕闇に紛れてしまうことなのでしょうか。
いつのまにか夕暮れの風が、半袖から剥き出しになった腕をぞくりと泡立たせて、思わず自分の身を抱きしめたくなるとき、「風邪をひくよ」と後ろから1枚ブラウスをかけてくれるその手を見失わない限り、わたしはもの悲しさというものを知らずに済んでいるのでしょう。

あの人は、首筋に流れる汗を手拭いで拭いつつも相変わらず、わたしの肉じゃがが食べたいといつも言います。
わたしは、真夏にそぐわない作りたての肉じゃがを一さじお皿に盛りつつ、涼しげなブルーの江戸切子のコップを冷酒でそっと満たす。
肉じゃがを食べるとき、きまっていつもあなたはこれを欲しがるから。
あの人は、「ぼくの欲しいものが分かるの?」と驚いた顔をして喜んでくれます。
わたしの肌寒さにそっとブラウスをかけてくれるあなただから、わたしがあなたがそうやって喜んでくれることを嬉しく思っていることに、とっくに気付いているでしょう。
わたしは微笑んで2杯目の冷酒を注ぎながら、「あなたのことなら何でも分かるわよ」と返すまでがお決まりで、この夕げのひと時が、わたしのささやかな幸せという台本に刻み込まれているのです。
もう何回繰り返したでしょうか。
あなたは決して飽きることなくわたしの肉じゃがを褒めて、わたしはあなたの好きな冷酒を注ぐ。

心地のいいメロディーのリフレインはずっと聴いていても飽きることはありません。
そのうちに、いつかそのメロディーが鳴り止むときが来たとしても、わたしはそれが鳴り止んだことが分からなくなるのでしょう。
もう音楽を再生しなくても、いつだってそれは、わたしの頭の中で流れを止めない小川のようにせせり流れているから。

「どうしてあなたはそんなにわたしの肉じゃが好きなの?」
額に汗を浮かべながら、湯気が経つうちに肉じゃがを美味しそうに口に運ぶあの人に、一度だけ尋ねたことがあります。
「きみがいちばん最初に作ってくれた料理だから。」
あの人と結婚した日、まだ食の好みをよく知ることがなかったわたしは、いちばん始めの夕げに肉じゃがを作りました。
吐く息が白くなるような夜に、凍えた指先を擦って温めるあの人に、身体が温まるものを食べさせてあげたかったのです。わたしの好物でもあるゆえに、母からいちばん熱心に教わったそれは、まだ拙い手際で夕げを作るわたしがあの人に振る舞える最初の料理でした。
誰かに料理を振る舞うなど、家族を除いては今までのわたしの人生にそれほどあったことではありません。
あの人が口に運ぶ姿を初めて見守るとき、隙間から入る夜風が余計に冷たく感じました。
それでも、ひとくち食べるなり、美味しそうに目を細めるあの人の表情に、誰かの喜ぶ顔を見る幸せを知りました。

晩酌にどんなお酒を出せばよいのか分からなかったわたしは、嫁ぐとき、わたしの家から持ってきた青い江戸切子のコップに冷酒を注ぎました。
何も分からないわたしは、ただ、温かいものには冷たいお酒が合うと思ったのです。
それだけの理由で差し出された冷酒を、あの人はこれはぴったりだと喜んでいました。
本当に合っていたのかは分かりません。
でも、それ以来、肉じゃがには冷酒、というのはわたし達だけが知る暗黙の掟となりました。

「今日もきみの料理は美味しいね」
あの人がそう微笑むから、わたしは江戸切子のコップを取り出して、冷酒を傾けます。
江戸切子のコップに、トクトクと流れ落ちる冷酒は砂時計の砂が落ちていくようだと思いました。
そうやって、大きな冷酒のボトルから、あなたのためにわたしがコップに冷酒を注ぐたびに、時が経つ。
「もっと、いりますか?」
けれど、身体に刻み込まれたように動くわたしの手は、ふいにゴツゴツとした大きな手に止められました。
コップに注がれなかった冷酒はテーブルにトクトクと零れ落ちる。
「…どうしたの?今日は冷酒はもう、いらないの?」
いつもならば肉じゃがを食べ終わるまでに4杯は、飲んでしまうあの人です。
不思議に思ってあの人の顔を見るけれど、どうしてか霧にかかったようにその表情が見えません。
ある早朝に濃い霧で前が見えなくなったとき、いつも見る景色がどこか違う世界のもののように思ったことを思い出しました。
まるでその時のように、見慣れたはずのあの人の顔が見えません。
わたしはあなたの顔を見れば、あなたが何を考えているか分かるはずなのに。

「泣いているの?」
わたしの頭のスピーカーの調子は悪くなってしまったのかしら。
聞き慣れたあの人の声もくぐもって聞こえます。
「あなたのことなら何でも分かるわよ」
いつものあなたの声は聞こえずとも、日常の幸せのひと時のいつもの言葉が、わたしの口をついて出るのです。

目の前の肉じゃががホカホカと湯気を立てる。
今日も美味しそうに出来た。あなたは喜んでくれるかしら。
青い江戸切子のコップと冷酒の瓶も忘れずに添えました。
瓶の中の冷酒はそろそろ底をつきそうなので、また買いに行かなくてはなりません。
「夕げにしましょう。」
「もうやめときなよ。もう…いないんだよ。」
あの人のいつもの笑顔が見たくて呼びに立つ背後から突然、聞きなれない声で、予定不調和なセリフが差し込まれました。
穏やかに流れていた小川が突然、大きな石にせき止められたとき、せき止められた水たちはどこへ行くのでしょうか。
あぁ、大好きなリフレインのメロディーが崩壊して思い出せなくなる。
溢れて流れる。昨日の冷酒のように、流れて溢れてしまう。
最後の一滴まで中身が零れ落ちた瓶は転がって、どこか遠くで割れる音がしました。
鉄に似た嫌な臭いが鼻をついて、指の関節からドクドクと血が流れる。血を見てはじめて鋭い痛みを感じるのです。包帯を…包帯はどこだったかしら。
棚の上にある薬箱はあの人に取ってもらわなければ届きません。あぁ、あの人はどこへ行ったのかしら。
「あなたのことなら…何でも分かるわよ…」
苦しいときも、いつもの幸せな台詞を唱えれば、それは裏切らずにわたしを穏やかにしてくれる。
あの人はいつだってわたしを穏やかにしてくれるのです。

彼女は毎日夕刻になると、ひとりでこの店に足を踏み入れていつも決まったメニューを頼んだ。
肉じゃがと冷酒。
彼女はいつもお気に入りの青の江戸切子のコップを欲しがった。
そして、いつもうわ言を言いながら嬉しそうに冷酒を注ぐ。
何を言っているのか分からないけれど、目を細めては幸せそうに笑う彼女はいつも目についていた。

初めは彼女にあまり触れないほうがいいと思っていた。客のプライバシーには触れてはならない。
けれど、日に日に増えていく冷酒の量と、うわ言。
もういないであろう誰かに想いを馳せて涙を流す彼女が見ていられなくて、思わず彼女の冷酒を注ぐ手を止めた。
割れた破片で指を血に染める彼女が呟いた「あなたのことなら何でも分かるわよ」というのは、わたしが唯一耳にできたうわ言だった。
あの日以来、わたしは彼女を見ていない。

リライト前










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