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わだかまり

エピソードエッセイを書くときは、そのエピソードから何かしら感じたことや学んだことを書くものなのだろう。
でも、わたしの頭に強烈に残っていながら、そこからどんな感情も学びも得られないエピソードがあるとしたら、それはもはや、どうやって書けばいいのだろう。

いくら考えても、どんな感情も出てこなかった。
家族には決して話すことのないエピソードを、わたしの記憶から色褪せて消えてしまわないうちに記したい。

誰もが泳げる海の中に記しておいたら、いつかひっそりと届けたい人に読まれることがあるのかもしれない。
もしも奇跡的に届いたなら、見知らぬ人のふりをしながら、でも読んで欲しい。

父と話した最後の夕方を幼なながらに覚えている。
今日、近所のあの坂を登った時に、ふいに、あの夕方のことを懐かしく思った。
理由は分からないけど、もう、会うことはないんだと悟ったあの坂で、ふとあなたのことを思い出したから、わたしはここに、決して家族には見せることが出来ない手記を書く。
わたしはあなたを恋しがることも懐かしむこともなくただ、淡々と自分の記憶の中のタブーを、整理するために記しているだけだ。

今、父はどこで何をしているだろうか。
わたしのことは覚えているだろうか。
母のことを思うと、もはや、思い出すことすらタブーなのかもしれないけれど、たまにふとあなたのことを考えることがある。
どこかで誰かの家族になって、生きているのだろうか。
もう、何も知ることも、会うことも無いけれど。

父と母は、わたしが幼い頃に離婚をした。
離婚の原因は、祖母から探るように聞けば聞くほど、父にある。
父が家族を見捨てたのだ。
でも真実は分からないけれど。
当時、幼稚園の年中さんだったわたしは、父がしばらく家に帰ってこない理由が全く分かっていなかった。
幼い頃の記憶とは、バラバラになったパズルのピースのようなものだ。
どれとどれをくっつけたら正解なのかが分からないから、適当に組み合わせ始めて、出来たそれが正しい絵画だと思い込んでしまう。
だとしたら、わたしの記憶の中の父は、「いつまでも遠い場所へ出張へ行ったきり帰らない父」だ。

いつのまにか何日も、父は家へ帰らなくなった。
当時の家の雰囲気、察するに余る母の心情は、断片的にしか残っていないわたしの幼い記憶から辿るしかない。
母はこの頃からやけに機嫌が悪くてボロボロになるまで爪を噛んでいた。
わたしが長くなった爪をいじったり、噛んで剥がしたりする時には爪が悪くなるからダメって叱るくせに、母は自分の爪をボロボロにする。
「ママ!爪噛んだらダメだよ。わたしにはいつもダメって言うくせに。」って幼なながらの正義感で注意をしたら、母は何にも聞こえなかったみたいにわたしに背を向けた。
自分ばっかりずるいって思った。
またある時、晩ご飯の支度をしながら「あんた達はママのこと、好きだよね?」とどこか遠くを見ながら隣にいるはずのわたしに語りかける目を鮮明に覚えている。
「ママ好きだよ」って答えるわたしは、ただ無邪気なだけだった。

ある日の夕方、祖父母の家で一緒に夕食を食べることになった。大好きな祖父母の家での夕飯は嬉しくて、私と双子の姉はやけにテンションが高かった。テーブルにはたくさんの具材が入ったお鍋やお寿司のご馳走。
日常の中に突然意味も分からず差し込まれる「特別」に微塵も不安を感じることなんてないほど、まだ、幼かった。
むしろ、この日の「特別」が、お誕生日会みたいに嬉しいものだと思っていたのかもしれない。
「ねぇ、何で今日はここでご飯食べるの?何でご馳走なの?ねぇ、何で?」
困った顔で黙ってしまった母に何度も畳み掛けた。
「何で!ねぇ、何で?」
いつもは、「聞いて答えてもらえないことは、知らなくてもいいの」って一方的に怒られて、遮断されてしまう。そのくせ、わたしが聞かれたことに答えないと、「何で黙ってるの!」って叱られるから、大人って自分勝手でずるいと思っていた。
でも大人になった今ならば、答えたくないその意味がよく分かる。だから、何度か質問して答えてもらえなければ、「聞いてはいけないこと」だと察することにしている。

「今日はお客さんが来るんだよ。」
諦めたように笑って、母が言った。
「え!お客さんって誰??」
今までお客さんが家に来ることなんて無かったし、ご馳走を作って迎えるようなお客さんなんて思いつかなかった。
「さぁ、誰かな??」
「え?誰?外国の人?」
「さぁ、誰かな?ハワイの人が、アロハ〜って来るかもしれないよ」
母はフラダンスのモノマネをしながら、終始、楽しそうに笑っていた。
この時母は、どんな気分だったんだろう。
聞けることなんて一生ないけれど、どうしてかわたしの頭にはいちばん鮮明に残っているこのシーン、このやりとりのことを、母は今も覚えているだろうか。

そうやって玄関先でふざけているうちに、ガチャとドアが開いた。
来た!って、期待をして眼を見張るわたしの前に現れたのはいつもの仕事帰りの祖父だった。
「え、おじいちゃんがお客さんなの?お客さんは?」
いつもは祖父が帰ってくるのが嬉しくて、「おかえり」って機嫌よく迎えるけど、その日はお客さんの存在に気を取られて、ドアの向こうに現れて一目見た相手が、祖父であったことに拍子抜けしてしまった。
でも、祖父が黙って玄関に足を踏み入れたその背後に、「お客さん」がいた。
何週間かぶりに見た、父だった。
「お邪魔します」お客さんとして来た父は、仰々しくお客さんとして挨拶をして靴を脱いだ。
「え!パパ!!何で!お客さんってパパなの!?」って玄関先で騒ぐわたしと姉にだけ、父はいつもそうしていたように、「ただいま」と笑顔で言った。

そこから先、家族みんなで囲む食卓で、どんな会話をしたのか覚えていない。
ただ、祖父も祖母も母も父もみんな揃っている家族というものを不思議に感じていた。
夕食後、リビングでテレビを観ながら、家族みんなで遊んだ。
いつもは、割れた時に顔に張り付いて取れなくなるかもしれないから危ないからダメ(当時そんな事故があったらしい)って言われて触らせてもらえなかった風船で遊んだ。
膨らませた風船をボールに見立てて、みんなで座りながら風船バレーをする遊び。
空中で、誰の元にいくか分からないひとつの風船の行く先をみんなが追いながら、落とさないように誰かが寝転がりながらラリーを返す滑稽な姿に笑いが起こった。
そのうちに、風船バレーに飽きてきて、ボールプールみたいに部屋を風船でいっぱいにしたいとわがままを言うわたし達に、父と祖父は懸命に口で空気を入れて、いくつも風船を膨らませてくれた。
いくつもいくつも色とりどりの風船が出来上がって、そのうちに風船が足りなくなった。
「ねぇ、風船買いに行きたい」
もっと風船が欲しくてそうねだるわたしに、父は「連れて行ってきます」と腰を上げた。
祖父も祖母も母も、父と子の最後の時間をくれるつもりだったんだろうか。
「行ってらっしゃい」と誰かが言った。

そうしてすっかり陽が落ちて、夜の手前みたいな夕方、わたしと姉は、父に連れられて、近くのコンビニに風船を買いに行った。
以前に何回そうしたか数えたこともない、当たり前だった買い物。
その帰り道、両手にわたしと姉の小さな手を握りながら、父は空を仰いだ。
「パパはね、これからすっごく遠くへ出張に行くから、もう帰ってこられないんだよ。」
「ママがもし、寂しいよ〜って泣いてたら、私たちがいるから大丈夫だよって慰めてあげてね」
何と答えたかは全く覚えていない。
そう言われて泣いたとか、寂しかったという記憶もない。
ただ、あぁ、もう会うことは無いんだということだけは、はっきりと分かった。
そういう時、泣くのが正解だったんだろうか。
意味もよく分からないまま別れを告げられたとき、人は意外にも泣けないものなのかもしれない。だってまさか、幼いわたしに、こういう時は悲しいって泣くものだという刷り込みの常識だとか、自分が泣いたら父も悲しくなるかもしれないなんて配慮なんて及ばないだろう。
ただ感じたままに、反応する。
あの時の気持ちを想像して一言で言うならば、「呆気にとられた」だろうか。
映画で、自分も出演者なのに、人生において重大な意味を持つ「決別」というシーンがただ目の前を流れていくのを訳もわからず見つめている気分だ。
血の繋がった親との別れとは、幼い心にとっては、こんなにあっさりと淡いものなのだ。

母は、寂しいなんて泣いたことは無かった。
むしろ、父の話はそれ以降、母から聞くことはない。
父は、わたし達家族の間で「口にしてはいけない存在」となった。
もしも母が目の前で泣いたなら、わたしは教えられた通り、「私たちがいるから大丈夫」なんて慰めただろうか。
もしそう慰めて、父にそう言われたことを話したなら、母は何も知らない幼い我が子に、無責任な責任転嫁をするなと怒っただろう。

全て想像でしかない。
何も知らないから、わたしには誰のことを恨むことも出来ない。
ただ、女の子の顔は父親に似るという話を聞くたびに、母の傷を抉りたくなくて、どうか我が顔が父親に似ることのないように、些細な癖すらもその面影を残していないように密かに祈っていた。
今となっては、鏡を見るたびに母と瓜二つなわたしの顔は、潜在意識が意図してそうしたのだろうかとたまに思う。
でも唯一、似たといえば、家族全員下戸な中でわたしだけがお酒に強いのは、きっとその血のせいなんだろう。
だからわたしは家族の前では、お酒を飲まない。

母は、わたしたちに父がいないことで、何か不利益を被ることがないか常に気にしていた。
でも、わたしは祖父や祖母、そして母から充分な愛と、何不自由もなく幸せに育ててもらって、父がいないことで負い目を感じたことなど一度たりとも無い。
わたしこそ、母がその負い目を感じることがないよう、小さい頃から誰よりも「出来がいい子」として育ちたかった。わたしの努力の目的はずっとそれだった。

覚えているべきでない人を忘れられないとき、どうやって気にせずにいたらいいだろうか。
こうやって時折、どうしているんだろうかと思い出していることを口に出来ないけれど、その後の消息くらいは知りたいと思ってしまう。
知ったところで、わたしにはどうしていいか分からないけれど、ただ、知らないどこかで元気で生きていて欲しいと願ってしまう。
今では他人であり、それでも決して他人ではない人なのだから。

わたしは、決して不幸でもなく、不幸話や綺麗事が書きたかったわけじゃない。
可哀想な子でもなければ、世の中にそんなこと溢れていることだと教えてくれなくてもいい。
本当は、公の場所で書いたなら本人に届くことがあるだろうかという期待もしていない。
ただ、いつまでたっても無味無臭なままのわだかまりを、書くことで残しておきたかった。これだけだ。


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