ごめん、レポを書こうとしたら寂しくなっちゃった。

内緒なんだけどね、noハン会の二次会が終わってみんなそれぞれ解散して、最後によもさんと総武線に乗ってるとき、「noteを始めてさ、みんなに会えて、moonちゃんと総武線に揺られてるって何か不思議だね」ってよもさんが呟いたのを聞いて思わず涙を飲み込んだ。
ずっと我慢してたんだけど、バイバイした後のホテルへ向かうまでの夜道で我慢できずにちょっと泣いた。
ほろ酔いの頭と滲んだ景色のせいで(本当は極度の方向音痴のせいもかなりある)ホテルまでの道に迷子になって、何度も同じ道を一人でグルグルしちゃった。

みんなで駅に向かって歩いている時とはまるで違う。深夜に一人で歩くビル街は、冷凍庫の中みたいでそんな冷たさにGoogleマップが表示されたiphoneを小刻みに震わせながら、幸せな夢から醒めた朝のような気分を感じていた。
こんなにも寂しかった帰り道はいつぶりだろうか。

実は、本当にこれで良いんだろうかという思いがどこかずっと頭の片隅にあった。
それは夏のnoハン会1stに参加して、ずっと会いたかったnoterさん達と始めて直に言葉を交わして、そこからどんどんみんなを「クリエイター」じゃなくて人としても好きになっていったこと。

わたしは、小説やエッセイを書いているという事を学校で出会ってきた友達に言っていない。
それはもちろん、恥ずかしくて言えないからというのも大きいんだけど、書く文章の中身よりも、「わたしが書いた」という事実に注目されてしまうのが何より嫌だった。
ちっぽけなわたしの中でずっと「孤独じゃなければ書けない」というひとつのポリシーがあった。
「孤独」というのは、実生活のわたしと作者としての自分を分離してしまって、完全にその"作品"だけを見てもらうことだ。

noteを始めたとき、わたしは自分の本名も性格も夢も、近くにいる友人なら当たり前に知っているようなこと、そんなプライベートの素性を何にも明かすことなく物語を書いていた。
自分とはかけ離れたキャラクター、想像の設定を選んでなるべく「わたし」を出さない物語が好きだった。
でも、いつのまにかエッセイの魅力にハマってしまい、エッセイを中心に書くようになっていった。エッセイは自分の考えとか、日常の生活を題材にして書くことが多い。
そうやって、だんだんmoonとわたしを分離できなくなっていった。

依存をしたり、馴れ合うことは苦手だ。
自分を語るのは更に苦手だ。
何よりも、わたしを知る誰かに本当に心の奥の方まで自分をさらけ出すことは恐ろしかった。
わたしのイメージが相手の中で変わっていくのが分かるから。
だからわたしを知らない誰かにエッセイでなら自分の心を語れた。そんな安心感と快感に溺れていつのまにかエッセイを書くことを心の拠り所にしてしまったのかもしれない。

そうやって、誰かに話すまでもないくらい小さな感動も、キザだと笑われそうな感性も、危ういグラグラしたささくれ心も、誰にも言えなかった過去も心の傷も全部エッセイを書くことでnoteの向こうの誰かに話した。
そんなエッセイにつくスキは静かにそれを受け止めてくれて、書かれるコメントは涙が出るほど温かかった。
みんなどうしてそんなに受け止めることが上手いんだろう。半年間、優しく受け止めてくれる誰かの存在を感じながら、本当の気持ちを文字にし続けるうちに、わたしはやっと自分の姿が自分で見えるようになって大嫌いだった自分が少しずつ好きになってきた。

エッセイを読み続けてくれたnoterさんは、いつも一緒にいる友達やそして家族でも知らないわたしを知っている。
そんな特別な存在になってしまった。
そして、誰かのエッセイをずっと読んできたわたしも誰かにとってそんな存在になっているのかもしれない。

でも、そうやって依存していくのが怖かった。
心の奥はさらけ出さずに正しい距離感を保ち続けることを選ぶ防衛本能が働く。
きっとちょうどいい距離感とは、顔も知らずに間に画面と文字挟むことだ。
みんな仮面を被って書いている。
実生活とは違う自分で「表現者」として書いていて、わたしはその表現者としてのみんなを尊敬していた。
「クリエイター」としてその人の書くものを純粋に愛して、わたしの書く「作品」を純粋に愛してくれる。それが、馴れ合わない関係で、moonとしてのわたしはそれがいいと思っていた。

それなのに。2回のnoハン会で画面の向こうにいたはずの魅力的な人たちと会って直に話をした。
意外にも文章と直に話す印象にギャップがある人がたくさんいた。けれど、それが余計に魅力的で、みんな信じられないほど心がぶ厚い人間だと改めて知ってしまった。
打ち上げで、普段なら言わないような話を打ち明けた。二次会で、歳が近い4人でお酒を飲みながら思わず心を全部解放して会話が出来ている自分に気づいてしまった。
作品を通しての好きとは違う、クリエイターとしての好きとは違う、人として好きになっちゃった。

好きが言えないわたしだ。
興味がないふりをするのがとてつもなく上手いわたしだ。
湧き上がる感情を冷静な防衛本能で押さえ込んで、好きになりすぎないことで正しい距離を測る。そんな生き方を体に染み込ませて生きてきたはずだった。
それなのに、もっと望んでしまう。
もっともっともっと色んなことを聞いて、話してみたくなる。それは、「書く」という共通の趣味を超えて、その人個人としての生き方や考え方やその心について。

そんな人たちに出会ったこと、信じられないほどこんなに愛おしい感情を抱いていることが不思議だ。
この罪悪感と戸惑いは、恋心を抱いてはいけないはずの人を好きになってしまったあの日に似ている。

そのうち冷静なわたしに戻れるだろう。
わたしがずっと信じてきた、「正しい距離感を保つということ」は正義じゃなくて、間違えたくないわたしのもつ唯一の防御なんだから。

総武線で涙を飲み込んだまま言わなかった言葉を言っても良い?「寂しくて仕方ないから、画面越しに戻れなくなりそうだよ」
画面の向こうの憧れのクリエイターが、会いに行きたくてたまらない人という存在に変わるnoハン会。
わたしはそれに少しの罪の意識を抱えながら、ハートをタップする「スキ」を、画面の向こうの文字を打つあなたに向けた「好き」に変えてしまっていいのかな

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?