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戯言 「断捨離」

わたしのiPhoneには、「ストレージがいっぱいです」の表示がすぐに出る。スマホゲームもマンガも保存していないのに、何でこんなにすぐにストレージがいっぱいになるんだろうってうんざりしながら、ストレージの使用済み容量を見ると、全体の7割の容量を占めるのは、圧倒的にカメラロールと音楽アプリだった。カメラロールも音楽も、思い出要素が強すぎて、なかなか消す勇気が無くてズルズルと整理を後回しにしてきたやつだ。
カメラロールは、大学時代に撮りためてきた写真がいっぱいあって、暇な時に遡るだけで懐かしくなるし、音楽アプリは、思い出と音楽が脳内で紐付けられるタイプだから、音楽を聴いただけで、これは受験勉強中に泣きながら聴いた曲だなとか、これは学祭の行き帰りによく聴いてたなとか、これは今まで失恋ソングに共感できないって思ってたけど、けっこうガチな片想いが破れた時に結局この曲に慰められてめちゃくちゃ泣いたなとか、曲を聴くだけで当時の感情が蘇る。

わたしは、思い出に固執するタイプなのだ。
いつも過去の自分と見比べなきゃ今の自分で立っていられない。
こんな自分になりたいっていう理想で描く未来予想図を作るよりも、思い出を振り返りながら、今の自分のどの部分に影響しているのか考える時間の方が好きだ。
しかも思い出とは、写真とかアルバムとかを見ながら、誰かと「あの頃はこうだったよね」って語れる表面的な思い出じゃなくて、使ってた物とか、いつバスから見ていた景色とか雑貨屋さんで買った安い香水(好きな匂いは絶対水の色がブルー系)の匂いとかから引き出される、自分にしか分からない感情的な思い出の方だ。
感情的思い出とは、誰かと共有したり、他の誰かには自分と全く同じ感情では共感されないがゆえに、パンドラの箱の中に隠しておくべき誰にも侵されたくない神域的な部分。
物とか景色は、その感情的思い出を引き出すためのトリガーなのだ。
だから、忘れたり捨てられずにいる限り、思い出に執着する。

部屋の片付けは嫌いじゃないけど、得意じゃない。
思い出がくっついてくるものが捨てられない。
もう10年前の高校受験の勉強の時にその一本だけをずっと使ってて、もともとエメラルドグリーンだった表面のエナメルがほぼ無いに等しくなったクルトガ(今もクルトガって流行ってるのかな)が捨てられない。
もう流行も過ぎて底の方がハゲてきているプチブランドのバッグ。
おばあちゃんと一緒にデパートに行った時に買ってもらったなって思い出したら、捨てるのに躊躇われて、また箱の奥に押し込む。無駄に情が湧く。
ケータイを変える時も、今までの写真が消えることとダウンロードした音楽が消えることを気にして、新しいケータイに同期するから次のケータイも変えたばかりなのにすぐに容量がいっぱいになる。

でも、いつかこのふたつから見切りをつけないと、わたしのスマホのストレージに余裕は出来ない。
わたしの部屋が、物は多い方だけどゴミ屋敷に成れ果てていないのは、無意識のうちにどこかで見切りをつけて大量に捨てているからなんだろう。
卒業アルバム。人生のバイブル的な本。感情を書き溜めてきたノート、小説。ぬいぐるみ。
大切な友達から貰った消耗品じゃないプレゼント。
今まで何度したか分からない取捨選択を繰り返しても残されている物を見つけると、感情的思い出トリガーの中でも際立って、本当にわたしにしか価値が分からないものばかりだった。
結局、人生で大切にできるものなんて、限られているんだろう。

だから、この際「大断捨離祭り」をしようと思った。
断捨離祭りをするためだけに取った有給。
部屋の中もスマホの中身も身辺も全部見直す。
2年着てない服は捨てる。思い出の品だろうと今使わなかったら捨てる。今必要ないものは手放す。未来に必要そうなものは、きっと必要になった時に探す前に買っちゃうだろう。捨てる。
今の私には合わないと思ったら、捨てる。
でも、大切な物を捨てるときは「ありがとうございました」と感謝をしながら捨てなさいと母に教わった。
全てのものに「ありがとうございました」をしながら袋にどんどん入れていった。

断捨離欲がある時は、自分を変えたい時だと聞いたことがある。
誰にでも中途半端にいい顔をする自分も捨てたい。
逆に変に冷静に中立的な立場に立とうとする自分もウザい。お前は審判じゃない。
喜びも怒りも悲しみも表に出さないことが大人だと思ってるのは、寒すぎる。
あと、「チャーハンが欲しいのにラーメンを頼んだらラーメンが来るよ」って当たり前のこと言っただけの言葉の意味がめちゃくちゃ、そうだよなって突き刺さる天邪鬼。
全部袋の中に「ありがとうございました」ってしたい。

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