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If there were no clouds, we could not enjoy the sun

It's All right


気持ちが揺れることもある。
だけど、1人でなんとかできるようになってきていて。
「抱える」とは少し違って
「できてない自分を受け止める」っていうか。

「揺れてること」を自覚したり。
「その中でもできていること」がわかったり。
「不安なんだ」って言えたり。

「全部わかってもらわなくても大丈夫」になったり。「ま、いっか」って言えるようになってきたり。

ちょっとずつだけど、変わってきていて。

「できてるよ」
「自信持って」と言われた時に
「そうかも…」って思えたり。

こんな風に準備が整ってきているから
「外に出てみよう」キャンペーンが始まって。
1歩踏み出すことができたのかな。

「社会はわたしを傷つけるもの」

CRPSを発症した当時は
まだ日本版の判定指標ができる前だったので
「知る人ぞ知る」的な病気で。

たまたま、当時の看護部長は
この病気のことを知っていたけれど。

他の管理職からは
「痛がっているだけ」
「仕事したくないからでしょ?」
「本当にそんな病気あるの?」
「あなたがいることで、働ける人を採用できないの。
辞めてもらえる?」などなど
完全にアウトな言動もあったりして。

中枢神経系の「知る人ぞ知る」的な病気の患者さん達を診ている病院で。
末梢神経系の「知る人ぞ知る」的な病気を発症した職員に対して
来院されている患者さん達が言われてきた、言われているであろう言葉を使われる、という経験だったり。職場である医療機関での不幸な経験や傷つき体験があって。

家族など周囲のひと達も
「自分の理解を超えた」病気の症状なので
当事者を傷つけるような言動が多くて。

わたしの中では
「社会はわたしを傷つけるもの」という思い(認知)が生まれることになった。

そして
自分を護るために、自分の中に閉じ籠った。
自分を護るために、過剰防衛をするようにもなった。

わたしの中では
社会=職場=医療者 でもあるので
医療者なのに、医療不信にもなった。

仲間達がキラキラして見えて。
もう仕事には戻れない自分が嫌になって。
うらやんだり、ひがんだりして
自分から連絡を断つようになった。

そうやって、どんどん自分の中に閉じ籠った。
そして、いつも戦闘態勢だった。
自分を護るために。
ちょっとした刺激にも、反応していた。

その状態が続いた結果
わたしのこころとからだは危機的状態になった。

いのちをつないでもらって。
大学病院での治療も始まった。

からだは1年かけて「動ける」ようになった。
こころも危機的状態を脱して。
傷つけてしまっていた医療職者に
「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えるようになったり。
1人で抱えてしまわずに
自分の内面を言語化して伝えられるようになった。
だけど「動けない」ままだった。

こころの方は、からだから遅れること約2年で
「動き出す」ことができるようになった。

「社会はわたしを傷つけるもの」ではないのかも?
そんな風に思えるようになってきたから。

「出会い」

2022年4月。
わたしは放送大学に入学した。
わたしの所属する学習センターでは
月1で学生の交流会が開催されていて。
学習の進め方や、科目履修についてなどの
ちょっとした相談だったり。
他学生との交流を図ることができて。
4月は体調の関係で参加できなかったけれど。
5月からは毎月参加させてもらっていて。
そこで同年代の学生さん達と
交流させてもらっていたり。

学習センターで行われる「勉強会」に参加して
人生の大先輩方とも交流させてもらっていたりして。

ひとの温かい部分に触れされてもらったように感じたり。

ゴスペラーズのコンサートに讃歌(参加ではなく、讃歌なのです)して。
帰りの臨時バスで、ゴスマニさんと交流させてもらったり。

通学のために利用している電車内で
揺れに対応することができなくて、あっさり転倒したけれど。
誰も気づいてくれず、しばらく床のひとになったことがあって。
早くに到着するけど、この電車なら座れるよ?と
同じ教会に行っているひとから教えてもらって。

たまに同じ車両になると、バスターミナルまでご一緒したり。
休日にカフェ巡りをするようになったり。

歩いて通えるところに
居場所づくりの活動拠点があるので
そこでボランティアをさせてもらっていたり。

病院関係者と限られたひと達
(教会関係者でも、かなり限られたひと)としか
交流がない状態だったけれど。
「世界」が広がる経験をしたり。

放送大学に入学する少し前にも
看護学校時代の仲間達との交流を再開したりしていて。

少しずつ
「社会って温かいものなのかも知れない」と
「社会はわたしを傷つけるもの」という思いを
上書きしているのだけども。

4月からの「出会い」が、良い方向に働いて。
「自分を護る『繭』から、外に出てみようかな?」と思うようになって。
「外に出てみよう」と
こころも「動き出す」ことができるようになった。

If there were no clouds, we could not enjoy the sun

わたしの場合は
こころもからだも危機的状態にならなければ
「病みの軌跡理論」でいう「編みなおし」のような
なぜ危機的状態になって、そこからの今があるのか?を考えることは、まず無かったと思う。

このままではいのちの危険があります。
と言われても
わかってるよ。患者に死なれたら困るもんね
…って思ってた。

こころもからだも危機的状態になったことで
看護の奥深さを体感して。
「このひと達を悲しませたくない」と思えて。
治療への第1歩を踏み出せた。

先生達への想いの変化は
また少し時期が遅くなるのだけど。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を
伝えることができた。

自分の経験を語れるひとって、少ないの。
辛かった時のことなんて思い出したくもない!
ってひとが多いの。

と、先生は言っていたけれど。

わたしはむしろ、積極的に語りたい気持ちがある。
「わかったこと」を自分の言葉で伝えたい
という思いがあるから。
なぜ、こころもからだも危機的状態になったのか?
という経験を自分の言葉で伝えることで
他の誰かのなにかのお役に立てたなら。
という思いがあったり。
当事者と医療職者との通訳者みたいな働きができたら…とか。
まだ解明されていない病気でもあるので
情報提供をしていきたい、という
医療職者の視点もあったりしているので。

雲がなければ、太陽は楽しめない。

高校時代に友人から教えてもらった言葉。
30年ずっと、大事にしている言葉。

30年前、わたしを覆っていた雲とは
少し違うけれど。

32歳になる少し前のわたしを覆った雲もまた
たくさんの学びの機会を与えてくれた。

13年の経過がある「社会的ひきこもり」でも
自分の中で準備が整えば、外に出ていけるようになる
ということも。

「自分を取り戻す」過程は一筋縄ではいかないけれど。
時間はかかるけれど
「自分を取り戻す」ことはできるんだよ
ということも。












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