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小沢健二に「さよならなんて云えない」よ。

今のところは、まだ。

1/20に渋谷クアトロで、小沢健二が5月以降に予定されているツアー「魔法的」についての発表と朗読会のイベントを行った、ということで、現時点で私的に思うところをざぁっと書き記してみる。

おまけ、について

自分は彼がフリッパーズ・ギターとしてデビューしたころから、リアルタイムで彼の音楽を耳にしてきた一人である。彼のつむぎ出す曲に心おどらせ、歌詞のつくり方とその素晴らしさにおどろき、アルバムごとにガラリと変化しながら提示されるその世界観に新しい何かを感じて"彼の音楽"にノックアウトされ続けてきた一人である。

なので、失礼を承知で書くならば、近年の彼の活動の中で一定の比率を占めている小説であるとか、朗読といったことに関しては、その内容の質の良し悪し関係なく、最終的には「おまけ」という形でとらえている。ライブ以外のイベントも、音源以外の物販とかも同義である。物販に関していえば、Tシャツの類いはほぼほぼ購入しようと思ったことすらない(これはデザイン的な問題です)。

昨年の世田谷文学館で行われた岡崎京子展でのイベントに関しても、今回のクアトロでの朗読会イベントにしても、限定されつつ発表される情報をチェックした瞬間は「行きたいな」「オザケン観たいなあ」「今度はどんなことやってくれるんだろう」と、スッゲー強く思った!

けれども、会場の規模や、幾分不親切とも取れる情報公開の仕方や対応から考えてみるに「行けなきゃそれでもかまわない」といった思考にすぐに着地した。だって「おまけ」は「おまけ」でしかないから。

とはいっても、「おまけ」の「おまけ」でしか得られない楽しさや面白さというのもあるから、それらを、チェックしたい、手に入れたい、という人の気持ちは否定しないし、できない、とも思う。"現在進行形のオザケン=小沢健二"はそれらの表現を含めた上で創作活動していることは間違いないのだから。

ただ、あくまで個人的な私感としては、彼の書く小説も手に入れられるものの大半は手に入れて読み、朗読も聞けるものの大半は聞いてきているけど、確かにユーモアと知性にあふれていて面白くて楽しめるけど、彼の音楽を聴いたときに得られた感動と衝撃には届いていないというのが正直なところ。

そういえば昔なにかのインタビューかアンケートかなんかで「音楽やってなかったら何をしていると思いますか?」という問いに対して、「気の利いた小説家にでもなっているような気がする」というような意味のことを述べていたっけ? 時間が経ち過ぎていて、ややうろ覚え。歳はとりたくないものだけれど、ただ、その時のその答えにものすごく納得したのを記憶している。

思い返してみると、2010年の「ひふみよ」ツアーのライブも、音楽も朗読もそれぞれ超楽しめたし、小沢健二だからこそのあの素晴らしいライブだった、と思うけど、あのライブが音楽だけで構成されたライブだったら、また一味違った素晴らしい多幸感があったんじゃないか、と思っていたりもする。実際ライブ盤『我ら、時』の朗読部分をスッ飛ばして、曲だけ並べて再生して聴いたときに得られる、ハンパなくアガる感じは聴くたびにヤッバいなーって思うもの。

そういった点でいうと、今回行われるライブ「魔法的」では比較的少人数で朗読なしでのスタンディングライブ(一部会場を除く)ってことだから、自分的にはすげージャストなライブになるんじゃないかって今から興奮を抑えられずにもいる(同時に、はたしてチケットは取れるのだろうか、という不安も抑えられずにいる)。

彼に対して生まれ育っていく感情

毎度のことではあるのだが、こうして、ああだこうだと自分にとっての「小沢健二」というアーティストについて脳内でこねくり回していくと、彼は音楽の才能超あるし、文章の才能も超あるし、ルックスも超いいし、頭も超いいし、もっと超スマートな活動できるでしょ、ってところで、「どうしてこうも超ぎこちないのかね、小沢健二」って考えに至っていく。

でも、そのぎこちなさこそが肝であり、ある種の憎しみも交えつつの愛おしさ、につながっているような気もする。

さて、冒頭の今回のクアトロでの朗読会イベント。このイベントも事前のアナウンスはほとんどなく、直前にポスターが貼られた程度で突発的に開催。

いざイベントが始まってみれば、会場の半数以上が関係者で、朗読会が終わった後はいわゆる「一般の人」は会場を出されて"お茶会"に参加できなかった、という点に対して不満の声もネット上を中心に一部で上がっている。

"お茶会"云々に関してはいわゆる"打ち上げ"ってことなのだろうから、「一般客はおことわり」的なナーバスな問題ではないと思うのだけど。期待度が高かったにも関わらず、小一時間ほどで朗読会のみでイベントが終わってしまったことがこうした不満の感情につながってしまったのかな、なんて思ってみたりする。

「東京の街が奏でる」ライブのときも、コンセプトがコンセプトだったというのもあるけれど、オペラシティのみでの開催って形で東京以外で生活している人たちにしてみれば疑問符が残る要素はあっただろうし、そのときは業界関係者は招待しない形を取っていたから、彼の行うことは万事スマートに行き切らないというか、どこかいびつで偏ったものになるというのは今に始まったことじゃない。それこそ、その昔、"フリッパーズ・ギター"で活動していたことに関する情報の制限で「言葉狩り」なんて言われてたことも含めて。

安全ボケ → 情報ボケ

で、こうした彼の情報の発信の仕方に関しては、極私的には最終的には上手くないなーって思う点もかなりあるけど、twitterやらU streamやらtumblerやらその時々で彼はトライ&エラーしてるから、何も受け取り側のことを一切考えてないわけじゃない、ということはその状況から理解できる。

ひとつ仮説として書けるのは、以前「ひふみよ」ライブの朗読の際、"安全ボケ"の話を取り上げていたけれど、それを"情報"に置き換えた場合のこととして、ものすごく気を使っているんじゃないかな、ってこと。

ちなみに"安全ボケ"の話とは、建設会社に勤める彼の友人が口にしたことで「身の回りに"安全対策"が増えすぎて、人が『ほっておいても安全だ』と思ってしまって、注意を払わなくなってしまうこと」に対する結果として危険を察知する能力が衰えてボケてしまう、という危険性に関すること(ライブ盤「我ら、時」Disc2の"自転車"に収録)。

つまり、近年ネット環境が進化してひたすら情報が増えつづけていく中で、単にさらに情報を増やして流しつづけることがかならずしもベスト、ではないということ。膨大な情報の渦のなかで、"その存在や貴重な情報"に引っかかりをつけるには、情報をあえて限定して手に入れにくくしたり、クエスチョンを投げかけてみたりすることで、その情報を受け手に注意させることで「情報ボケ」を回避させる必然性もあるということ。

それが結果として、「オザケン」を必要以上に肥大化させず、消費させすぎず、かつ彼のフォロワーが「小沢健二ボケ」からも避けることができるということ。

とかなんとか、瑣末な推測はするものの、彼がすべてがすべて、確信犯的に狙いを定めて情報をコントロールしている感ってのは正直なかったりもするけど、彼の活動に意外性はつきもの、っていうのは昔からだとは思う。

彼の曲の中でも自分が好きな曲の上位である「それはちょっと」という曲の中ではこの一節が繰り返される。

きっと僕は死ぬまでずっとワガママだから

結局のところは、彼がどんなにワガママな活動をしていこうとかまわないんです。彼が犬は吠えるがキャラバンは進む、ってな姿勢でこれから活動を進めていく中で、それこそ「魔法的」な新曲をガツンと聴かせてくれれば、その楽曲をライブでぱーっと魅せてくれれば、すべてはオッケーよ、って一言に着地してしまうんです。

ぼくにとっての小沢健二はそれがすべて。

だから、今はまだ、彼にさよならなんて云えないでいる。



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