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018【花の色はうつりにけりな】

花の色はうつりにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに
小野小町

桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。

『風姿花伝』(世阿弥著)の中に「花」という概念が出てくる。世阿弥は「時分の花」と「真の花」の二種類の「花」を紹介している。世阿弥は、幼い子どもの時分から、少しでも大人びた完成された芸をさせようとするのは間違いであり、そんなものは、いずれそのときになればできるようになる。そんなことを先にさせたからといってもあまり意味がないという。幼い子どもの時分にしか発揮できない良さ、それは、自然に任せて出てくる良さであり、その良さを十分に発揮させてやることが最も大切なのだという。そして、その良さは、やがて成長してしまえば消えてしまう「時分の花」と呼ぶと。このことから、多くの人は「真の花」が本物で「時分の花」は低級だと勘違いして捉えてしまう。しかし、そんなことは一言も言っていない。

世阿弥は、ゼロから出発した役者が精進してより高い境地に至るという風には考えていない。その時期に来れば、役者はその年齢に合わせた完璧な状態になれると言う。そして、それはやがて年を重ねると、徐々に失われていく。だからその失われていくものを補いながら、能のレベルを下げないように頑張らなければならない。そのとき咲くのが「真の花」。「時分の花」が失われていくときに、「真の花」が支えていく。そして、「真の花」は失われることはない。つまり初めは百点満点なのに、老いによって点数はだんだん低くなる。それを補うために学び続けなければならないという。

若い世代の中には、ベテランのようになりたいとか、私はまだまだ学び続けなければならないと危機感や不安感を抱いている方が多い。しかし、それは逆である。いつの時代も流れを捉えているのは若者だ。ベテランよりも、若い世代の方が人気があるし、自分の未熟さ故に、学ぼうとする真摯さと熱意は、若者にはかなわない。ベテランには指導技術があり、教え方は洗練されている。世の中の実態も知り尽くしている。分かりにくい所を分かり易く説明する術も巧みである。だが、ベテランがどんなに素晴らしい教え方をしたとしても、何の成果も生み出せないのが現実である。ほんとうに社会を成長させるのは、若者である。社会とは若者が動かすものであることが一因と思うが、若者がベテランの言うことを聞くのは、目の前に居るときだけで、単に威厳があったり、怒鳴られたりするのが嫌さに調子を合わせているに過ぎない場合が多い。一方、若い世代の一言は社会の心に強い影響を与える。もちろん、これは本当の実力ではない。これは「若さ」による「時分の花」である。やがてそれは失われていく。だから、若い世代は「真の花」を咲かせる努力を続けなければならない。

では、新卒の一年目から人の心を掴むのが下手だったら。その場合は、仕事に向いていないと判断し、残酷ですが、諦めた方がいい。年を重ねると共に、あなたのレベルは下がっていくのだから。自分が一番ワクワクするとか、楽しいとか感じる仕事へ思い切って、乗り換えた方がいい。時間はたっぷりとあるのだから。

技能や知識を積み重ねる仕事は年を重ねるごとに大輪の花を咲かせる。能などの人の心を掴む仕事は、年を重ねるごとにレベルが下がっていく。若さが失われてなお社会の心を掴むには、人それぞれにいろんなやり方がある。問題は、どんな方法であれ、社会に貢献することだ。

若い世代がつまらないギャグを言っても人は笑う。ベテランが同じことをするとバカにされる。ギャグにも落語のようなプロのお笑いタレント並の努力が要る。

若い世代が叱り飛ばし、ときには怒鳴ったりすると熱血だとか、情熱的と言われる。ベテランが同じことをするとウザッたい奴になる。社会の心情を深く理解した言葉が必要になる。実際には、感情を開放する営みは、新卒にのみ許される特権である。ベテランや上司が感情を開放した経営を行うと、組織には、それが限界のように感じられ、若い世代が成長しなくなる。ベテランは常に冷静に、若手はときに劇場型に、そうした役割があるのだ。

若者が親身になってアドバイスをしたり、助けようと寄り添ったりすると、親切な先生、優しいと評価される。ベテランが同じことをすると、煙たがられる。むしろ適切な助言が必要になる。

「ベテランは、若者より優秀だ。」

なんてことはありえない。ベテランは、手に入れた知識や技術よりも、失った熱意や情熱の方が遙かに多いはずである。ベテランほど、先ず現実を受け入れるべきだし、若者は「時分の花」がいつか失われることを知らなければならない。逆に言えば、若者は、自分の指導や力量に不安や危機感を持つのでは無く、もっと自信を持って進めばいい。そこにいる、ただそれだけで、若者は素晴らしいんだ。そして、それはどんな人にも同じことが言えるのだ。

10代は10代の花が咲き、20代は20代の花が咲く。30代は最後の花が咲き、そして散る。ここまでは、時の勢いで、誰もが咲く花。ここからが新たなる旅立ち。もう自然には花が咲かない。老いが始まる。40代からは時分の花が枯れているので、自分の花を咲かせて行かなくてはならない。

20代は、初心と言う頃。この頃に定めた物は、人の心を惹きつける。人もほめてくれるし、名人に勝つこともある。ただし、真の花とはほど遠いものである。だからこそ、この時期は、研鑽に努め、よくよくまだまだと心得る。

30代は、世に認められる時期。盛りが極められ、名声を得る。しかしまだ真の花を究めたとは言えない。この時期に、なお慎み、自分の過ごし方を覚え、行き先を覚えることをしなければ、後の40代に衰えていく。

40代、この頃から、ものの覚え方が変わってくる。力もなくなり、身体も、所作も、失う。よくよく自分を揺さぶり、自分の心と対話をし、自分を考える時期。真の花を咲かせるなら、この時期。自己実現を可能にするのは、平均して40代からと思う。

50代、善し悪しは少なくなる。しかし、枝葉も少なく、老木へと向かっていく時期。花は色あせて、むなしく見える。その中でも、きらりと輝く花こそが、自分の花である。多くを経験し、工夫を尽くしている人は、花を失うことがない。花は心、種は態である。ものまねばかりする人は、ものまねの面白さを知ることはない。

教師は、子ども達に、かけがえのない自分の存在を自覚して、自分を大切に精一杯生きていく人間になってほしい。そして、人に支えられている自分の存在を自覚して、自分も人を支えることのできる人間になってほしいと願っている。どのようにして、導こうかと考えるとき、教育方法論に頼りがちである。しかしながら、いつの世も、子どもの無限の可能性を信じる教師、一つの指導法や考え方にとらわれない教師、授業の流れの機に臨み子どもの変化に応じて柔軟な力が発揮できる教師こそが、子ども達を成長させられる。自分の花を咲かせようということを意識せずに、時分の花で満足したり、ただ思い悩んでいる日々を過ごしていたりしていては、あっという間に色あせて、衰えてしまう。

楽しい、幸せと思ったら、即行動。光より速く動け!!


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