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276【問題解決的な学習と生き方】

受験は個人戦ではなく団体戦だといわれる。学級全員が出席者ではなく参加者になることで、責任と協力が生まれる。結果として、全員の学力があがっていく。『学び合い』を導入すればいいんじゃなくて、参加者にする工夫と手立てが必要なのだ。

不登校や学級崩壊は、教師のみの責任とは言えない。その原因は、学級全員が傍観者だったり、加害者だったり。一方、不登校や学級崩壊から改善するのも、教師の指導力もあるが、学級全員が認めあったり、助け合ったり、支え合ったりすることがきっかけになることが多い。

学力も同じ。個人の努力よりも学級全員の成績が上がることで、みんなが上に行ってしまって置いてかれると焦る。学級のおかげでネガティブになることもあるけれど、学級のおかげでポジティブにもなれる。一つ確かなことは、人は一人では成長できないということだ。

人間は社会生活を行う中で、美と醜、聖と俗、善と悪、真と偽、合法と不法などの価値判断をする。子供も大人も、心身の成熟と社会的、精神的成長によって、これらの価値を学び取り自己を高める。二元論を考え議論するのは大事で、その過程で自分を知っていく。

二元論のどちらかがいいというのではない。それらを自覚し、対決して、より良い精神的な価値を求めようとするとき、よりよい教育文化が創造される。教育の価値や世界観の習得は、各自にあって決して一様ではない。各自の個性によって実現の様式は異なる。

教師の準備した材料で実験し、教師の考えたレールの中で活動し、まとめていく授業は、教師にとって楽かもしれないが、子どもにとっては自ら学んでいく力にはならない。教師は、意図的、計画的に、自由試行の場を子どもに与え、今後の課題を検討していくべきである。

課題が問題意識というものにまで高まるための要件として、デューイは「疑問、躊躇、当惑、心理的困難の状態、ここに思考は始まる」と述べ、ブルーナーは「驚きの利用、当惑をもたせる、いくつもの答えをもつ不確かな問題の提供、困難さとの遭遇、矛盾の提供・・・・・・」を取り上げている。

問題を把握するという場面では、見る→見つめる→見直すときである。疑問解消のため生じた問題意識が、論理的、構造的に思考を働かせ、解決への見通しが持てるときでもある。ある事象に気付く段階から、「なぜだろう」と疑問を持ち、「よし、このようにして調べてみよう」と意識が高まる。

問題解決型の学習を実用主義の教育観からみれば、①問題をつかむ、②結果の予想について話し合い、解決の計画をたてる、③実験や観察をして、作業をつづけ記録する、④結果をまとめる、⑤まとめた結果にもとづいて日常生活に活用してみる、という方法・進め方になる。

問題解決型の学習を知識主義の教育観からみれば、①教師の説話と動機付け、②原理の理解、③実験操作による新しい発見や原理の確認、④整理の発問や応用問題による知識の定着というやり方になる。

問題解決型の学習を人間主義の教育観からみれば、①自然についての興味関心を持つ、②問題解決の楽しさを味わわせる、③自然についての理解を深め、科学的な見方や考え方を養うという流れになる。子どもから出発し、それらを科学的なものに高めながら、豊かな人間性の育成をねらいとする。

「攻めの升田、受けの大山」升田さんは一手指すのに広く大局的に情勢を見極め、慎重にして大胆な一手をおろす深い読みがあった。これを「着眼大局、着手小局」と言った。

大局に着眼するのは、自分の方針をしっかりと持った上で、事態に対して偏見を持たず、総合的・多角的に判断するということであり、これに対して、着手小局とは、身近な足元から着実に実行すること。全体を見失うことなく、しかも、身近な課題を的確にとらえて着実に解決していくこと。

自主的に考えさせることで初めて教育は完結する。わかるということは、①感覚でわかる。②頭で理解する。③技能で再現できる。言語化だけが「学ぶ・教える・伝える」という実践教育の普遍的なメソッドを生み出す。一流の戦略より、一流の実行力が重要だ。

強要しようとしたときから、煩悩・苦悩が始まる。人は尊敬する人の言うことしか聞かない。だからいかに尊敬されている人だと演出していけるかが大事。強要しようとするくらいなら尊敬される生き方をしよう。

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