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【カミーノ】時間とは何か、自己との対話、無邪気な天使

今日もカミーノを歩いています。今日で30日目。歩いていると、壮大なネイチャーを前にただただにっこりしていることもあれば、普段の生活のなかでは中々考えないようなことばかりで頭の中を巡らせていることもあります。今回は後者を書き出してみます。

◾️時間とはなにか

カミーノをはじめてしばらく経ったタイミングで、お気に入りのBabyGを腕から外した。(左手の腕時計焼けが気になったのもちょっとだけある。けど一番は、時計の時間に縛られている自分を解放してみたくなったのが理由。)

腕時計を外してはじめて、自分が一日にどれだけ時間を確認しているのかを知った。そして、羅針盤をなくしてしまったかのように、最初のうちはものすごく心もとない感じがした。

時計をしているときの行動パターン

・14時にはステイする街に到着していたい
・(とすると)12時には昼ごはんを食べたい
・(とすると)7時半には出発したい
・(とすると)6時半には起きたい
・(とすると)22時半には寝たい

気が付けば、この逆算思考で、常に時計の時間を気にしながら、時計の示す時間を軸に、自分のやることを決めていた。毎日こんな感じで過ごして、なんというかすごい楽だった。けど、楽しかったかと聞かれるとどうなんだろう。今考えると、なんかものすごくもったいない過ごし方だったかなあ。自分で自分の世界をきっちりとコントロールできているような気はしていたけど。

時計を外したときの行動パターン

・起きた(い)ときに起きる
・食べたいときに(食べたいものを)食べる
・この街にステイしたいと思ったときに、歩くのをやめる
・寝たい時に寝る

この自由度の高さでいってしまうと、めちゃくちゃ楽しいんだけど、結構やばいことになる。以下は昨日の例。

たべもの
朝:ドーナツとチョコチップクッキー
昼:ビールとポテトチップス大袋
夜:カフェラテとバナナとチョコチップクッキー大袋
という、小学生の頃に夢見ていたような献立で一日を過ごしてしまった。(いや、違うな。小学生の頃は、ビールは激マズ!だと思ってたな。)
ステイする街
朝の時点でなんとなくここかなあと見立てていた街がなんとなく気に入らなかったので、そこをスキップ。次の街もスキップ。そのまた次の街もスキップ。雨もずっと降っているし、さすがに当初の予定よりも7,8キロ以上歩いているので体に疲れが出てくる。これで汚い公衆ベッドに泊まるのでは、さらに気が滅入ってしまう(※公衆ベッドが常に汚いわけではないです)。「よし、次見つけた大きい街のホステルに泊まろう」。贅沢心が生まれてしまった。
寝るじかん
「この曲を聴き終わったら寝よう」「この記事を読み終わったら寝よう」・・・これがエンドレスに繰り返され、気付いたら夜明け近い時間に。

ただ、このような寝不足や食べすぎなどの問題が発生すると、不思議なことに、翌日以降で体が勝手に解消しようとする。(サラダが食べたくなったり、すぐに眠くなったり。)

わたしの中のネイチャーがネイチャーに反応して、引き出されているのかもしれない。(前置きがかなり長くなってしまいましたが、ここが一番言いたかったところです。)

時計の時間に従って生きているなかでは、なかなか現れてこない私の中のネイチャー。

これが時間の正体・・・?


◾️自己との対話

ひとりになったとき、私はようやく私と対話できる。私は、ひとりになってはじめて私に語り始める。私が感じていることを私にたくさん教えてくれる。

ひとりにならないと、知らなかったことばかり。いっぱい教えてくれてありがとう。

これからもずっとよろしくね。私の時間をちゃんと大事にするからね。


◾️無邪気

昨日、2人の天使と出会った。1人目の天使は女の子。メインプラザでぼーっと座っていると、隣に突如舞い降りた、バンダナ姿でスカートをひらひらさせて走る女の子天使。私の隣に座ったと思ったら立ち上がって走り出したり、また戻ってきて私の横にちょこんって座ったり。ふと目が合うと、いたずらっぽい目をきらーんとさせて、思いっきりはにかんできた。ずきゅん。そうかと思えば、また走り出して、教会の入り口にある銅像のおじさんの手に自分の小さな手を重ねてケラケラ笑ったり。彼女の叔母と思われる女性が、その姿を写真におさめようとするも、天使はずーっと動きまわっているので中々静止画にはおさまらない。「ウノ、ドス、トレス!」と、私が唯一知ってるスペイン語をさけんで、高いところからジャンプした天使は、そのまま走り去っていった。

可愛かったなあと思ってひとり微笑んでいたら、後ろから今度は男の子天使が四つん這いでやってきた。女の子天使の弟のようだ。たぶん自分の足で歩ける年だと思うんだけど、ずっと何かをさけびながら、四つん這いで地面を這っている。アリだ。アリを夢中で追いかけている。かと思いきや、6時を告げる教会の鐘の音にわかりやすく反応して、「え、どこ?」「この音、どこから聞こえる?!」と周囲をくるくると見回す。と、すぐにまたアリのことを思い出して、四つん這いに戻る。そうこうしているうちに、母親に呼ばれて、その場を去っていったのだが、ふいにこちらを振り返り、たまたま目が合って、ぐーにした右手をふりふりしながら「あーじおす」だって。こちらも手を振り返すと、生えかけの歯を見せながらにかーっと笑って、また前を向いて母親に手を引かれながら去って行った。

天使だった。まじで。邪気がない。無邪気な天使。こちらの存在まで邪気を吸い取られてしまったようなそんな気持ちになる。

人にはみんな、無邪気だった時代がきっとある。いつ、どうして、邪気は芽生えるんだろう。グレタさんのスピーチの中でも大人に対して「悪魔」「邪悪」という表現があったな。

邪気のある存在が無邪気に触れて、邪気がなくなるように、無邪気な存在が邪気に触れて、最初は自己防衛のために、やがては無意識の内に、邪気を自ら放つ存在になってしまうという連鎖が生まれてしまっているのかな。

でも世の中、邪気で満ちているかっていうとそんなこともない気がする。(たまに感じることはあるけど。満員電車の中とか。w)

邪気はどこからやってきて、どこに向かうのか。邪気とはなにか。


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