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「スピリチュアルじゃめしは食えん!」心で叫んでいた

「大きい愛はわかるけれど、小さい愛がわからない。
あの体験をしてから、ずっとこれが私の悩みだったんですよねぇ...」

昨日、末吉さんとのセッションで、そんな話をしてました。なぜか(笑)

今日はちょっとトーンを変えて、思いつくままに今の自分の頭の中を書いてみようと思います。
    


「神の眼で見る」という体験をして、

100%の愛
完璧な愛

人間が知っている100%をはるかに超えた100%

「完璧とはこういうことか…」
と初めて知りました。

時間も空間も消え、ただ

「ある」

それを体験しました。


でも、それで私の人生がバラ色になったかというとそんなことはない。
その体験を、生身の人間である自分の中に統合していくのには、長い長い時間が必要でした。


最初は受け止められず、「なかったこと」にした。
その封印を解くまでに数年かかりました。

「それを体験した自分」に、とらわれてしまった時期もあった。

もう一度それを体験したいと、渇望した時期もある。
   

現実とのギャップに苦しみ、
「なんでそんな体験をさせられたんだろう」
「知らないままでいたかった」

そう思っていた時期が、いちばん長かったような気がします。
   

「スピリチュアルじゃ、めしは食えん!」


ずっと心で叫んでました。

スピな世界に足を突っ込み、愛だなんだを語る自分と、

仕事ができない協力会社の契約を切ったり、予算をぶんどるためにあれやこれやの算段をしたり。会社組織の理不尽さや使えない上司にイラつく自分と。

そのギャップに、自分で自分が苦しかった。

愛があろうと、目の前の仕事は片付かない。
そんなことより、この仕事、どうにかしてくれよー!
と。


あのころの自分に、今の私は何を言ってあげられるだろう。

「だけど愛はあるんだよ」なんて、そんな言葉は白々しい。
「早くそこから逃げちゃいな」なんて、軽々しく言えない。

もし何か言えるとしたら...

「とりあえず、今日も私は元気に生きてます!」



「こころがいっぱいでも、おなかは、すきますか」


長い人生の中で、時おり急にこの言葉が思い出される。
中学生のころだったか、立原えりかさんの童話集で読んだ『花くいライオン』というお話。


ある朝突然、いっぽん残らずヒゲが抜け落ちてしまったライオン。
「ヒゲがないライオンは、ライオンじゃないや」
「ライオンじゃないライオンは、王さまじゃないぞ」

王さまでなくなったライオンは、ひとりぼっち。
ヒゲのないライオンとともだちになってくれたのは、
ひとりぼっちの白い花。

花がいやがるから、ライオンはウサギもヒツジも食べることが出来ません。

でも、おなかはすきます。

「それなら、わたしをたべて」


ボロボロだけどどうしても捨てられない宝物


心がいっぱいでも、お腹はすく。
人間って、そういうふうに出来ている。

現実から目を背けちゃいけない。
だから私は、どこか別世界にあるスピリチュアルや、抽象論ばかりのノンデュアリティには興味がない。

それは私の担当ではない。

かと言って、お金を稼げるようになるだけのコンサルをするつもりもさらさらない。

それも私の担当ではない。


心がいっぱいでも、お腹はすく。

そしてやっかいなことに、
お腹はいっぱいでも、心は満たされない…
そんなこともあるのです。

人間って、そういうふうに出来ている。



生きるということは矛盾だらけ。
正解の無い「問い」に向き合い続けること。

「大きい愛はわかるけれど、小さい愛、人間的な愛がわからない」

この問いに対する答えを、いまだ私は持ち合わせていない。

だからといって、「そんな人間が他人をサポートをしていいのか?出来るのか?」とも思わない。

なんだ簡単なことじゃないかと、時々、わかったような気にもなる。
だけどやっぱりしばらくするとまた、「うーん...」となる。

わからないからこそ、人間であることに執着する。
人間ではないものになろうとしている人を見ると、私の警告ランプが反応してしまう。

たぶん、一生かけて問い続けていくんだろう。
たとえ答えが見つからなくても。

  
「とりあえず、今日も私は元気に生きてます」

これだけが、今の自分に出せる唯一の答えなら、
その答えを持ってお客さまの前に立つ。


オチもない。
まとまりもない。

そんな文章を投稿することを、自分に許してあげようと思います。

以上、終わり!

最後までお読みいただきありがとうございます。スキやフォローしていただけると猫のようになつきます(^^)/