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馬鹿の逃げ道とトロッコ問題

「これから正義の話をしよう」

で有名なサンデル教授の公開授業を家族で見ながら討論したことがある。今から10年くらい前の話だから授業内容は曖昧なので割愛する。

あのトロッコ問題をその時初めて知った。5人の命を救うために1人を犠牲にする選択肢ができるか、というやつ。

兄は一貫して大多数を救う意見だったし、私は条件によってはその選択ができなかった。

どうして大人数が助かる選択ができないのか、結果は同じなのに条件が違うことで選択を変えてしまう人が大勢いるのか、と理解できないようだった。どうして、と聞かれたけど、結局私は答えることができなかった。

「お前は昔から冷たいからな。人間はそんな考えでは駄目だ」

会話を聞いていた父が兄を否定したけど、結局感情論でぶつけられても兄は全く響いていない様子だった。議論しても無駄と判断したのか、それに対して返事はしなかった。

大人数の命を救う選択肢なのに、冷たい、と言われてしまうのは矛盾しているけど、気持ちが分からないわけではない。ただ、より多くの人が生きる選択が正しい気はしているけど、それをどうして選べないのか。

結局、自分は馬鹿だから自分より偉い人の意見を通すべきだ、とずっと思っていた。

賢い人が何かを犠牲にする選択をするべきだ、と。自分はその責任を負わないのではなく、負わない方が良いのだと。

より良い結果の選択をするには労力もいるし、責任も必要だ。

私はその責任を負いたくなくて、楽な道に進みたくて、選択を放棄した。より良い社会のためと言って、自身が馬鹿であることを理由に。

でも結局それはただ自分に都合よく考えているだけだった。

実際の問題だと、選挙権をもらった時はこの選挙権私に渡すべきではないのでは、と思っていた。

学校でどれほど選挙権があることが恵まれているかを説明されても、私なんかより頭の良い人同士で決めた方がいいと思っていた。

結局自分が何かの決定権を握ることが嫌で自分の選択で自分が不幸になることも、他人が不幸になることも嫌だった。

いつまでも子供でいることが楽だった。


選択から逃げても、意見を聞かれることはある。そんな時は大多数の意見だったり、キレイゴトを答えることが多かった。

キレイゴトを選択する労力は、より良い結果を求める選択よりも労力は少ないし、責任も低い気がする。

それに、キレイゴトを選択して、批判されることって多分少ない。だから堂々と選択できたのだと思う。むしろ、「優しいね」みたいな声かけをされる。心の内でどう思ってるかは分からないけど。

トロッコ問題の論点からは外れてしまっている気がするけど、結局結末が分かっている問題でも自分が切り替える選択をできないのは、そうやって逃げ続けていたからなのだと思う。

周りが大人になっていく中で自分だけ子供な感覚がずっとあった。でもそれって結局自分が何一つ変わろうとしてないんだな、と思うしどこか開き直りを感じる。

思考を放棄せず、より良い結果を選ぶ努力をしていきたい。


ここまで読んでくれてありがとうございました。

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