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【新刊試し読み】『海恋紀行』〈わたしの旅ブックス35〉|森まゆみ

伝説のタウン誌『谷根千』の編集人として活躍し、その後、数多くの文芸作品を上梓してきた、森まゆみさんの著書『海恋紀行』8月20日(金)に発売されます。本書の発売を記念して、本文の一部を抜粋して公開します。


本書について

聞き書きの名手であり町歩きの達人である著者が、これまで書いた紀行の中から海にまつわるエッセイを厳選して収載した一冊。島、半島、海辺の町……潮風に導かれるように日本中を旅して、海のある風景とそこで暮らす人々の姿を旅情豊かに紡ぎ出す。
海をめぐるさまざまな物語が描かれた海旅紀行の決定版。


試し読み

竹富島でもずくとり

 海が恋しい。いま北は岩手の宮古、釜石から南は沖縄・竹富島まで通っている。
 三、四月の大潮には竹富でもずくをとりに海に入る。本当はおじい、おばあの話を聞きにいっているのだが、午後の一時、引き潮の時間になるとおたがい、うずうずしてくる。
 そろそろ行くか、と松竹荘のおじいが言う。昇助さんは昭和五年生まれ、農業、漁業、大工仕事、手工芸何でもござれ。はい、と答えてこちらも完全防備。帽子、長袖、首には手ぬぐい、ズボン、長靴、これで海に入る。最初水にぬれる時が気持ち悪いがなれてしまう。
 珊瑚礁が露出し、遠浅になった海をどんどん沖まで行く。おじいの足は速い。網を腰につけ、発泡スチロールの船を引いている。膝くらいの深さの海で、ゆらゆら揺れるもずくを手のひらでつかむ。ふわっと根からはなれる。海藻はいろいろあるが、もずくは黒緑で、ひときわ色が濃い。だれかは“陰毛のよう”だと言った。海水の中で振って石や草をはじく。これをちゃんとしないと後の始末が大変だ。

 夢中でとって網に入れる。腰が痛い。もずくを浜に引上げる時がたいへん。水があれば浮力で浮くが、最後は濡れた網をかついで岩礁を歩かなければならぬ。軽トラの荷台で運び、民宿の庭でバケツにあけて、さらに石や草を取り除く。塩を打つ。これで一年は冷蔵庫でもつ。おじいは民宿の常連さんにもずくを送って喜ばれている。私は東京の家に帰ると塩を抜き、冷やしてだしつゆとポン酢で食べる。夏の暑い時はじつにうまい。そのほか、もずくのみそ汁、もずくの卵焼き、もずくの天ぷら、もずくのおかゆ……
 ぬるい湯のようなコンドイ浜より、流れの速いアイヤル浜のもずくがうまい、と聞いて行ってみた。たしかに浜に近いところでとれる。しかし大潮を過ぎるとあっという間に水が上がり、私は溺れかけた。「危うく海のもずくになるところだった」と息をつくと、「海の藻くず」でしょ、と誰かが笑った。そのもずくも業者が来てバキュームで吸って土産物に加工したりしているそうな。せちがらい世の中になった。


目次

Ⅰ 海辺にて
Ⅱ 島にわたる
Ⅲ 海とくらす


著者紹介

森まゆみ
1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。著書は『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜」の冒険』(紫式部文学賞)など多数。「わたしの旅ブックスシリーズ」(産業編集センター)として『用事のない旅』『会いにゆく旅』『本とあるく旅』がある。


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『海恋紀行』著/森まゆみ
 2021年8月20日(金)発売
【シリーズ】わたしの旅ブックス
【判型】B6変型判(173mm×114mm)
【ページ数】232ページ
【定価】本体1,210円(税込)
【ISBN】978-4-86311-309-1


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「わたしの旅ブックス」とは

“ 読む旅” という愉しみを提供する、がコンセプトの読み物シリーズ。さまざまな分野で活躍する方々が、自身の旅体験や旅スタイルを紹介し、人生を豊かに彩る旅の魅力を一人でも多くの人に伝えることをめざしている。ジャンルは紀行、エッセイ、ノンフィクションなど。