ざっくりモンゴル! 草原の秘密|鈴木裕子 ボートック【2】
山羊は毛を抜き熱を出す
5月末のある日。極上のボートックへの道のりはまずは食材選びから。
「この時期なら羊より山羊だよ」そう言われて早速市場へ。生きている家畜の市場では、地方から連れてこられた羊・山羊たちが、売り主ごとに仕切られた柵に囲われている。羊は毛の生えかわりの時期を迎えていて、まだ痩せていてボロボロの毛を張り付けた姿は気の毒なくらいみすぼらしい。一方山羊たちはピカピカだ。中でも私たちが選んだやや小ぶりで茶色い毛の山羊は丸くて本当にきれいだった。目利きをしてくれたアタラさんの弟さんに感謝だ。
「でも不思議。どうしていまは山羊のボートックがおすすめなの? 春一番に咲くヤルゴイの花をたくさん食べた山羊が美味しいって聞くけれど、羊と同じで太った秋の方が美味しそうに思えるんだけれど?」
それについてAさんは「モンゴルでは、山羊を冬には食べないって話を知ってる? 山羊の脂はラクダと同じですぐ固まっちゃうんだよ。ちょと強いっていうのかな、その脂を摂りすぎると人の身体の方が負けちゃうんだ。だから春のまだ太り過ぎていない頃の方が脂が少なくてボートックに向いているんだよ」と教えてくれた。モンゴルにいると様々な場面でお肉にもそれぞれの旬があることを知る。自然の中で生きる動物には、季節ごとに身体に変化が起きている。考えてみれば当たり前のことなのかも知れない。
ボートックというと羊より山羊が有名なのだ。羊ファンとしてこの謎について聞くと、「山羊の方が、作るのも簡単なんじゃないかな」との答え。羊は首が細いから、首の穴から体の中身すべてを取り出すのが難しい。ボートックの第一関門は首なのだ。そして第二の理由は羊の後ろ脚が太くて大きいこと。もちろんそれを支える骨もだ。取り出しにくいことこの上ない。言われるまで気づかなかったが山羊と羊は似ているようでは確かに骨格が違う。山羊は山の羊と書くように山を登るし、高いところが好き。当然羊より前足に重心がかかるというワケだ。羊と山羊は生物学的な分類が違うにも関わらず草原では一つの群れになり共に暮らしている。ぼんやりと平原のひとかたまりを見ている時は気づかなかったが、元々山羊は重心が前にある暮らしをしているのだ。そう、暮らしから導い出される生きものの身体の設計はいつもパーフェクトで無駄がない。
ところで近年モンゴルで山羊は増加の一途を辿っている。山羊は換金性の高いカシミアを生む。カシミアとは山羊たちを冬の寒さから守る冬毛のこと。あたたかくなると、山羊たちからはこのホワホワした柔らかなアンダーコートが抜け落ちる。そして夏をシャリシャリと張りのある硬い直毛で涼しく過ごす。自然に任せて放っておいたら、人はこのカシミアのぬくぬくを利用できないから、抜ける手前、どうにか毛が梳き取れる頃合いに人海戦術でブラシで梳き取ってしまう。それは結構時間のかかる大変な重労働だと聞く。極寒でそして長い冬のあるモンゴルはカシミアのすばらしい原産地だ。
いっぽう山羊も大変だ。毛を梳かれると1週間熱を出し、その後はしばらく痩せてしまうという。市場で羊と山羊を見てきた人たちは、わたしたちの山羊を見て「この毛並みは梳かれて連れてこられたばかり、いいタイミングの山羊だ」と言ってほめた。
いまモンゴルでは山羊がどんどん増えて問題になっている。山羊は羊と違って、草木を根こそぎ食べて、脅威的な速度で草原から家畜が食べる草を減らしてしまう。そして一見草は生えているように見えて、じつは餌にならない草ばかり……という草原の荒廃の問題を引き起こしている。海も山もここ平原でも、世界にはいつも人の欲と資源の間に悩みが横たわっている。
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