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わたしと祖母と金魚の思い出

金魚掬い
小さい頃から身近にあったもの、それは水槽である。幼稚園年中の頃、今は亡き祖母の家の近くのお祭りで金魚掬いをした。
父方の祖母の家には、長期休みやお正月には訪れていたけれど、一緒にお祭りに行ったのはこれが最初で最後だった。
小さいけれど、祖母はあるお店を営んでいた。
お店には女性も男性も関係なかった。
あの世代の人がある意味腕一つでお店を営むのは大変だったのではないかと推測する。祖父と結婚して、子供たちを産んでも、80近くまでまだお店を続けていた。
きっと仕事そのものも楽しかったのだろう。
それもあって良い意味でわたしに干渉することがなかった。勿論、受験に合格すると喜んでくれたけれど(笑)
遊びに行くとお年玉やお小遣いを渡してくれた。合格のお祝いもくれた。
「あなたの好きなものをあなたの好きなように買いなさい」というスタンスだった。

わたしの父が「そんなに(お小遣いは)いいよ」と気づかっていうと、「私はこの子にあげてるのよ。貴方には関係ないでしょう。」とピシャリと言う強さだった。
ありがたく少しずつ貯金して、大きいもの(自動車学校や旅行)に使った。

だから「プレゼント(物)」を貰ったり、一緒にお店に買い物を行った思い出はあまりない。

あのお祭りの日、雰囲気に浮かれたわたしはプラスチックの刀のおもちゃやキティちゃんの柄の和傘のおもちゃを欲しがった。わたあめも、金魚掬いも、祖母は淡々と買って(お金を払って)くれた。
どこか近寄り難さがあった祖母に、子供ながらの遠慮のなさで甘えたひと時だった。

そのとき救った赤い金魚は4匹。
1匹は帰りの電車の中で手が滑り、袋ごと落としてしまった。父母が周りに謝りながら持っていたタオルで水を片付けながら金魚を助けた。
(乗り合わせた方には大変申し訳なく思う…)

夜遅くに帰り、家には水槽がなかった。
一旦、洗った虫かごに金魚掬いのビニールに入っていた水ごと入れた。(水道水はカルキ抜きの必要があるので)餌は家にあったお麩を細かくちぎってあげた。

おそらく、落としてしまった金魚だろうか。この時点で体調を悪そうにしていて、次の日の朝、残念ながらお空へ行ってしまった。その1週間後、もう1匹も。

残りの2匹は、3〜4年生きた。
この時の金魚掬いをきっかけに、金魚に夢中になった。本屋さんで金魚の本を買ってもらって、家に水槽を置いた。
幼稚園の「しょうらいのゆめ」には「きんぎょのけんきゅうしゃ」と書いた覚えがある。

ふと思うと、あれからこの年まで家にはずっと、金魚がいた。出目金、キャリコ、コメット、ピンポンパール、リュウキン、水泡眼…。
一番長生きしたのはブラックコメット。高校生から大学生まで、6〜7年間過ごした。
細かい金魚の話はまた別の日記に書きたい。

所謂、「アクアリウム」にはなかなか手が出せていない。
置いてある水槽は、そこまで大きくない簡単なものである。
でもいつか、部屋の一角にいくつもの水槽を置いて管理することが今の夢になっている。

今の、わたしの家の水槽
和金とシュブンキンがいる。


祖母のこと

中学生の頃には、祖母をはじめ、親戚のみんなでディズニーランドに行った。
大学受験でわたしが志望校に合格すると、とても喜び「短歌」を書いてくれた。(趣味だったのかもしれない。今になっては、もう聞けないけれど…)

祖母は90を越えても、とても元気だった。
街の合唱サークルに入ったり、クラシックコンサートに行ったりしていた。

祖母が亡くなったのは、大学院生の頃。
わたしが丁度就活をしていたときだった。
志望企業の何次選考を迎える日、まだ夜も明けぬうちに「その」電話は鳴った。
身体はどこも悪くなく、苦しむこともなかった。
本当に静かに去っていった。

親からは「とにかく、今日は就活へ行くように」と。祖母ならそう言うだろうとわたしも思った。
就活から帰り…お通夜と式を終えて…また、就活へ向かった。

食事を皆で食べながら、(この日はこの後帰宅だけだったので)気づけば皆と、梅酒を何杯も飲んでいた。祖母もお酒に強い人だった。

きっと遺伝なのだろう、わたしも「感情をごまかせるくらい」お酒を飲めた試しがない。
ここだけの話、わたしはわたしのお酒を飲める上限を知らない。底無しではないと思うので、どこかで上限は来るのだろうが、それを確かめるために飲むにはリスクが大きい。
「飲んだところで酔わないのだから、感情を誤魔化すためにヤケ酒をする意味がない(ヤケ酒に「なる」ほどまで飲むのはあまりにリスクが高いと思う)」ので、早々にお茶やジュースに切り替えている。
例えば同席の人が2杯でほろ酔いになるところ6杯かかってしまう。健康、費用、空きグラスだらけ…諸々考えて「1杯+ジュース+ハイテンション」で良いという考えになる。

「お酒が強いと飲みすぎるのではー」と言われたりもしたが、わたしは反対にほとんど飲まない。
祖母もきっと同じだったのだろう。お正月や何かの折に、たまに飲んでいるところしか見なかった。

内内定の電話

その後、「あの日」に向かった企業の選考が進み、最終面接を終えた。
電車から降りたときに、企業から内内定の電話を受けた。
祖母が亡くなった後、実はわたしは泣いていなかった。今思うと、とにかく感情にフタをしていたように思う。せめて皆でお酒を飲んで、酔いながら思い出話でもできれば良かったのに、残念ながらわたしは酔うこともできなかった。
「院卒でなければ、仕事をしている姿を見せられたのだろうか」そんなことを思ったりもした。

内内定の電話を切った瞬間、涙が止まらなかった。合格の喜び、祖母の死、色々なことが一気に溢れ出した。人の多い街中、慌ててハンカチで汗を拭うふりをして、近くの店の化粧室まで走った。
ようやく泣けたと思った。

社会人になって、そして転職した今。

あの時代に、結婚も育児も家事も仕事も全てこなしていた祖母に色々なことを聞きたいと思う。
高校生の頃、祖母の半生について聞くことはあったけれど、実際にわたしが社会人になって、好きだと思える仕事をしている今だからこそ、聞きたいことがたくさんある。

祖母がお土産に持たせてくれた手作りのちらし寿司。わたしは子供の頃、「甘いご飯」が苦手であまり食べられなかった。今なら思う。もっと食べておけばよかったと。レシピを聞いておいて、作ってみたいと。

今、祖父母が生きていて、お話しできる方は電話でも手紙でもメールでも、聞きたいことをたくさん聞いて、お話をしておいたら良いのではないかなと思う。

仕事も。家事も。実は少し苦手な料理も。
もう祖母に答えを聞くことはできない、だから、わたしが進んでいって答えを知るしかない。

中学生の頃、ある宿題が出て、祖母の得意分野(?)だったので聞きに行ったことがある。
祖母は、基本を教えてくれた後「あとは自分でがんばりなさい」と言った。
(実は、添削してもらおうなんて思っていた…(笑))

もしかしたら、これが祖母の答えなのかもしれないなと思う。
苦手な料理も、もし悩み事を相談したとしても。

「自分でがんばりなさい」

突き放す言い方ではなく、「自分のことなのだから、自分で考えてやっていきなさいよ」と笑って言うだろう。

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