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創作音楽劇《荒城の月〜落日の譜〜》

[作曲]森 彩音
[台本]渕本 晴都子

キャスト
[瀧廉太郎]     小山 陽二郎
[瀧廉太郎の父]   木村 一郎
[瀧廉太郎の母]   原田 陽子
[瀧大吉(従兄)]  森口 賢二
[瀧民子(大吉の嫁)]小林 美央
[ケーベック教授]  高橋 洋介
[鈴木毅一]     西影 星二
[幸田幸]      野田 ヒロ子
[幸田延]      山口 佳子
[東ゆき]      長崎 裕美
[S. ベルディナッタ]   小川 里美
[学生]       横山 和紀
           田村 智仁郎

演奏
[ピアノ] 鳥井 俊之
[フルート]浅野 奈津美
[チェロ] 軽部 由布


 1879年、瀧廉太郎は東京で生まれた。日出藩(現在の大分県速水郡日出町に所在)の名家の出身で、明治新政府で内務官僚を務めていた父のもとに生まれた彼は、幼少より父の転勤に伴い日本各地に移り住んでいる。4歳の時には、1854年に日米和親条約が締結されて以来、西洋と日本の窓口となっていた開港都市・横浜に移った。この地では、鉄道が走り、ガス灯がともされるなど、西洋文化が盛んに受容されていた。廉太郎はここでヴァイオリンやアコーディオンに触れ、洋楽を志すようになったと言われる。

 1890年、12歳になった瀧廉太郎は、前年から郡長として父が赴任していた大分に移った。この時に一家が住んだ官舎は府内城のすぐそばにあった。海と川に面したこの城は、白土の塀と、まるで水上に浮かぶかのようなその姿から「白雉城(しらさぎじょう)」とも呼ばれる名城である。廉太郎は、この城の掘りに沿って学校に通っていたという。翌年、父が大分県直入(なおいり)郡長に任ぜられ、一家は同じ大分の竹田に移ることとなった。この地は、安土桃山時代以来、江戸幕府の滅亡まで岡城の城下町であった。竹田時代は、廉太郎の楽才が芽生えた時期である。彼は、横浜で西洋音楽に出会ってから、自分でもヴァイオリン、ハーモニカを演奏するようになり、自在に扱っていたと言われる。直入郡の高等小学校では、オルガンを演奏できる唯一の生徒であった。また、この学校では音楽教師の渡邊由男(後藤由男)と出会ったことで、本格的に音楽家として生きることを志すようになり、指導を受けた。1894年、高等小学校を卒業した廉太郎は、東京へ旅立つ。東京では作曲家・小山作之助に指導を受け、東京音楽学校に最年少で合格し、ピアノ演奏、作曲、作歌を予科、本科で学び、研究科に進学した翌年には嘱託教師として授業の補助業務も担うようになった。当時、東京音楽学校では西洋への音楽留学生として幸田幸(こうだ・こう)が選ばれており、彼女の後輩であった廉太郎も留学への思いを募らせていた。数多く作品を手がけたこの頃、名曲《荒城の月》もまた生み出された。

 《荒城の月》は、土井晩翠の詩に瀧廉太郎が作曲したものである。元は東京音楽学校が中学校教育向けに出版した『中學唱歌』に含まれる一曲であった。東京音楽学校、またはその前身となる組織がこのような曲集を出版するのはこれが2度目であったが、最初の『中等唱歌集』で半数以上の曲が外国由来の曲だったのに対し、『中學唱歌』は全て日本の作品であった。廉太郎の作品は、《荒城の月》に加え、《箱根八里》、《豊太閤》が収録された。出版にあたって「中学唱歌披露会」も開かれ、特に《荒城の月》は好評であったという。この作品はロ短調だが、実は第7音が抜かれている——つまり、ヨナ抜き短音階=都節音階(みやこぶしおんかい)である。日本の伝統的な音階を用いたことで、人々の音感覚に強く訴えたのだ。また、廉太郎の原曲では、2小節目のミにシャープが付されていた。このシャープは早い段階から省略して歌われることが多く、山田耕筰の編曲版でも改訂した際に消されてしまっている。日本的な音階には存在しない音のため、違和感を感じる人が多かったことが理由とされているが、廉太郎はこのシャープを付すことで、日本の伝統的な音楽と西洋の音楽を融合したかったのではないだろうか。

 1901年6月、念願が叶い、音楽留学生としてドイツ・ライプツィヒに到着した廉太郎は、ライプツィヒ音楽院への入学を目指して受験勉強を始めた。その甲斐あって、10月の試験で見事に合格、3年にわたる充実した日々が始まるはずであった。音楽院に通い始めてわずか1ヶ月と3週間後、冬の寒さがこたえたのか、廉太郎は風邪を拗らせて入院する。音楽院にも通えなくなり、クリスマスには退学となった。目的を失った廉太郎の元には文部省から帰国命令が出され、8月にライプツィヒを出発、10月に横浜港に入港し、東京の親戚宅を経て両親の待つ大分の実家に向かった。しかし、懐かしい大分・竹田の地でも病が癒やされることはなく、ついに1903年6月29日、息を引き取った。23歳、あまりに早い死であった。

 ところで、《荒城の月》の作詞者・土井晩翠にとって「荒城」とは、会津若松の鶴ヶ城(つるがじょう)、そして故郷・仙台の青葉城だった。いずれも東北の有力大名だった伊達政宗が築いた城である。では、瀧廉太郎にとっての「荒城」とは何だったか?——それは紛れもなく、故郷・竹田の岡城である。岡城が築かれたのは、《荒城の月》が作曲される700年ほど前の1185年、源頼朝が鎌倉幕府を開く数ヶ月前である。築城したのは、当時この地を治めていた緒方惟栄(おがた・これよし)という武将で、壇ノ浦の戦いの後、頼朝に追われる身となった源義経を匿うためであったと言われている。しかしこの計略は失敗に終わり、義経は奥州藤原氏を頼って東北へ下向し、惟栄は群馬の沼田荘(ぬたそう)に配流となった。その後の岡城は、キリシタン大名として有名な大友氏の重臣・志賀氏、豊臣秀吉の「中国大返し」で先鋒として活躍した中川清秀(なかがわ・きよひで)の息子・秀成(ひでしげ)以後3代の藩主によって統治された。岡城は、川に挟まれた台地に築かれた天然の要塞であった。

 廉太郎や晩翠がこれらの城を見た時には、すでに明治新政府によって「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)」が出されており、建造物が破壊されていたと考えるのが自然である。彼らが見たのは、虚しく残された堀と石垣など、わずかな面影だけであっただろう。《荒城の月》の背景にあった城は、すべて江戸幕府の忘れ形見であった。


曲目解説執筆
山本 柊真/Shūma, Yamamoto
神奈川県出身。主な関心は、音楽と演劇を中心とした芸術学および教育学、特に18世紀から19世紀にかけての西洋における美学芸術論および人間形成論。また、オペラ・声楽作品を中心とした舞台芸術公演において、あらすじや曲目解説を執筆し、音楽史と音楽以外の分野との関連に焦点を当てて論じた解説が評価されている。他方、舞台監督として公演に携わるなど、実践の場でも活動している。現在、昭和音楽大学音楽教養コース4年次に特待生として在籍。

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