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【考察】誰かのために強くなれるなら ありがとう 悲しみよ で出た涙

私は、音楽をあまり聴く方ではない。学生の時などはよく、「好きな音楽のジャンルは?」とか「好きな歌手は?」とか聞かれたものだが、そのたびに「えーっと・・」となり答えに窮した。

そういうわけなので、LiSAさんの紅蓮華を知ったのは、2020年の年末という他の人から見れば遅い時期だった。この年は「鬼滅の刃・無限列車編」のヒットが話題をさらっていたため、年末歌番組の生放送で歌う様子を2回くらい見たはずだ(なお、鬼滅シリーズは見てみたいと思っているものの、未だに見られていない)。

LiSAさんのエネルギーと歌唱力に圧倒され、岐阜から歌手を目指して上京した彼女が涙ぐんで故郷にメッセージを送る姿にも心を打たれたが、「誰かのために強くなれるなら ありがとう 悲しみよ」というその歌詞に心を突かれた。

最初に聞いた時は家族もいたしギリギリ泣いていないと思うが、涙ぐんでしまう。あとで一人で The First Takeで聞いた時には、涙が出てきた。私は家で涙腺が弱いときがあるが、特に疲れている時であるなら、なおさらだ。

なぜ、この一節がこれほど心に響いたのだろう。

まず、2020年はコロナ禍が始まった年であった。未曾有の危機の中、やりたいことも行きたいところもあったけど、行けなかったし行かなかったということが多かった。人が動くとリスクが増す。若い人はリスクが比較的低いかもしれないけれど、その行動がひいては高齢者や基礎疾患のある人をリスクにさらすことにつながるとされていたからだ。終わりの見えない状況はつらく、息苦しかった。未来に透過度の低いベールがかかっていて、外が見えないしそこから抜け出せない。

でも、自分だけ良ければいいんじゃなくて、自分が耐えれば他の人を守ることにもなるんだということ。誰かのために自分がしっかりすること。そういう時代背景的なものが、まずあったと思う。

もう1つ、これは恐らく私が中学生以降、内に秘めて向き合ってきた概念なのだと気づいた。

自分が強くないと、自分自身も、自分が守りたい人も守れないのだ。

社会には理不尽なことがあふれている。強ければ攻撃をされない、理不尽に巻き込まれないということが担保されるわけではない。しかし、強ければそのことが価値となって、巻き込まれなくてよいことに巻き込まれずに済んだりすることはある。強さによる先制防御だ。

この場合の強さとは、自分の戦っている分野における強さ(秀でていること)である。身体能力、知力、外見的な美しさ、ニッチな特殊能力など、その方向性は人によって様々なものがあるだろう。もちろん何か1つではなくて、色々なものの組み合わせが個人の魅力を作るので、方向性は1つではなく複数の掛け合わせでもある。

自分が強ければ人に影響力があるのだから、自分の行動や存在で人を守れることもある。自分が本当の意味で強いならそのことを肝に銘じ、それを人を見下す虚栄の鎧ではなく、人に優しくするための源泉として使えばよい。そうすれば、もっとポジティブな環境を生み出すのに微力ながらも貢献できる。

自分と誰かのために強くあろうと思うに至るまでには、相応に理不尽や悲しみ、後悔など自分を揺さぶる経験があった。そこから自律を学び、その上で自制できる強い人間になっていこうとした過去の自分がいる。

だから、「ありがとう 悲しみよ」なのだ。

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