おばあちゃんのお弁当


 私のおばあちゃんは料理上手。家族で一番の料理上手。レシピも見ずに、おばあちゃんの舌は迷いなく美味しい味を選び出す。テレビで見た料理をそのまま出さずに何かしらアレンジしてみんなに提供してくれる。そのため、私もレシピや料理番組を見てもそのまま作らず何かしらアレンジを加えてしまう。これは遺伝だ。

"今日何食べたい?"と必ず聞いてくれる。優しいご飯である。


  〜おじいちゃんがいた頃〜
 私のママには夜勤がある。そのため、小さい頃から最低でも週に1回はおばあちゃん家に泊まりおばあちゃんのご飯を食べていた。おじいちゃんがいた頃は野球を見ながらの晩御飯でとてもうんざりした覚えがある。ママは阪神で、おじいちゃんは巨人ファンという親子なのにいつ敵同士になったのか。

普段、おじいちゃんとどんな会話をしていたのかは覚えていないが、「ほら、モンロー!モンロー、トマトあるでー」と私の顔を見ればトマトだった事はしっかりと覚えている。ご飯中におばあちゃんとおじいちゃんの言い合いを聞きながら、ご飯を静かに食べる時もあった。

当時、"学校へ行こう"の未成年の主張での告白シーンが流れると、必ずおじいちゃんは「モンローは、おじいちゃんと結婚するもんな」とよくある父親が言いそうな事を祖父という立場で平然と言っていた。私は笑ってスルーしていると、おばあちゃんは「おじいちゃんなんかと結婚せーへんもんな!」と言い返してくれていた。この流れを毎週していて、うんざりした記憶がある。"未成年よ、テレビで告白なんかするんぢゃない"と何度思った事か。
 私はおじいちゃんより、おばあちゃん派であったためママが夜勤の日はおばあちゃんと寝た。でも何故か、急におじいちゃんと寝るようになった。それが、おじいちゃんが亡くなる一カ月前であった。不思議だ。そういえば、おじいちゃんが亡くなった日も皆んなでおばあちゃんのご飯を食べている時だった。家族団欒の中、病院から連絡があったのだ。

おじいちゃんが亡くなり、晩ご飯中に野球を観なくなったが、観ている番組がCMになるたびにおばあちゃんは野球にチャンネルを合わせて、巨人が勝っているかどうかをチェックしていた。そして、勝っていると"おじいちゃん喜んでるわ"と言う習慣になった。死んでも良い夫婦だ。

  〜卵焼き〜
 私の卵焼きの味と言えばおばあちゃんである。おばあちゃんの卵焼きは、見た目はスクランブルエッグのようで綺麗に巻かれているわけではない。おばあちゃんの友達が家に泊まりにくる事があり、その人が卵焼きを作ろうとすると「私が作ったのじゃないとこの子食べない」と言った時は、友達に対して失礼な態度をとるおばあちゃんだなと思ったが「おばあちゃんが作ったの以外は食べたくない」というのが本音であったためそれはそれでよかった。
私にはママ側、パパ側と二人おばあちゃんがいるが、パパ側のおばあちゃんの卵焼きは申し訳ないが未だに食べれない。弟は素直で有名なダウンちゃん(ダウン症)なので、パパ側のおばあちゃんの卵焼きを口に入れては"おえ。むりです。"と言っていた。素直なのか性格が悪いのか。

〜おばあちゃんのお弁当〜
 おばあちゃんが私の通学・通勤でお弁当を作りだしたのは、私が中学生の頃からだ。そこから、ママが夜勤の時はおばあちゃんのお弁当だった。小学生の頃は、給食だったのでお弁当と言えば遠足の時のみ。どれだけ卵焼きを楽しみのしていたかは誰にも想像ができないと思う。この頃は、毎日お弁当が良いと思っていた。中学生になると念願の毎日お弁当。4時間目の授業では頭の中はお弁当のことでいっぱいだった。

高校生の時も給食がないためお弁当。この頃には、お弁当のありがたみが正直わからなくなっていた。美味しいパン屋さんが昼休みになると売りにくるため、お弁当よりもパンだった。そのため、おばあちゃんに明日はパンかお弁当か聞かれた時はよく「パンにする」と言っておばあちゃんのお弁当を断っていた。どう考えてもお弁当の方が美味しいのに。校則が厳しくダサい中学生活。いわゆる獄中生活のような所から出所した私には高校が少女漫画のようでミニスカートをひらひらさせながら毎日の高校生活をエンジョイしていたのか、パンとミルクティーでお洒落ぶっていた。大学生になり彼氏ができた。獄中生活を体験していた私は高校生の時の少女漫画のような華の女子高生から、まるでドラマのヒロインに転身したといっていいほど充実した大学生活であった。と盛りに盛りすぎたが、本当に楽しい学生生活であった。放課後はダンス部、休日はデート。

もちろん、おばあちゃんのお弁当は継続していたが、こんな私が、彼氏と一緒にお昼ご飯を食べるためにお弁当を時々作るようになった。しかし、おばあちゃんは優しいので、「明日はこれ入れていきや」と晩御飯の残りを冷蔵庫に入れて置いといてくれたりした。だから、私は朝お弁当に詰めるだけであった。うそ。たまに詰めるのもおばあちゃんがしていた。だから私は持っていくだけであった。私に作って(お弁当を彼氏に渡す際に作ったとは言っていないが、彼女がお弁当を持ってくるのだから作ったと思うに決まっている)もらえて嬉しいのか「美味しい美味しい」と連呼していた彼氏。何の悪気もなく隣で微笑んでいた私はその彼氏の妻になりました。
 働きだしてからもおばあちゃんのお弁当は続いた。新卒で働いた病院を退職する最後の日、おばあちゃんが「モンロー、明日は最後の仕事の日やからお弁当作ったろか?」と。迷いなく「うん」と返事する私。職場での思い出を蘇らせながら夜勤で最後のお弁当を食べた。就職してからは、毎日毎日午前中に怒られた分はお昼にお弁当を食べていつもリセットさせていた。悔しさで泣くのをこらえながらお弁当を食べたこともあった。おばあちゃんのお弁当で締めくくれて良かった。ありがとう。
 

〜最近のおばあちゃん〜
おばあちゃんは足が上がらなくなった。杖を使いだしたがまだ使い慣れていないのか足元から10センチ浮かせている。そのため杖を付いて歩いているのではなく、杖を持って歩いていると言った方が良い。しかし、不思議なもので杖を持っているというだけでスタスタ歩く。おばあちゃんの杖はきっと魔法がかかっている。私が年老いた時にもそんな魔法の杖を買ってくれる子供がいてほしい。
 おばあちゃんは最近耳が一気に遠くなった。テレビはスピーカーをつけて聞くようになった。おばあちゃんと喋る時は皆んな大声になった。皆んなおばあちゃんと長い文で話さなくなった。皆んな大声で単語で話すようになった。電話での会話が難しくなった。
 浴衣を着せる時の力も弱くなった。私は毎年の恒例行事として、現担ぎとしても恒例な事はしておきたい性格のためおばあちゃんには毎年浴衣は着せてもらいたかった。そのため、どれだけお洒落な結び方の帯が流行ろうと私はおばあちゃんの着付けから離れたいと思った事はなかった。しかし浴衣を占める時の苦しい感覚が今年はなかった。 それに、おばあちゃんから”来年からママに着せてもらわなあかんな”と言われた。"ママなんかに着せてもらったらどーなることやら。適当な事は言わないでほしい。"と思いつつ少し悲しい2016年の夏だった。翌年から浴衣を着る事はなくなった。


〜おばあちゃん〜
 三谷家三姉妹は老いていくお母さん(おばあちゃん)に対して杖を使った方が良い、車に乗らない方が良いと皆んな心配している。元看護師長女イクは、おばあちゃんの少しの変化も見逃さない。さすが昔蛇女のモノマネで、次女ハナヨと三女タカを追いかけていただけある鋭さである。
 勿論、私も心配している。しかし、老いていくおばあちゃんををまだ受け入れられていない。
 昔おばあちゃんに腕相撲の勝負を挑んで負けたこと。二階で寝てた私を毎朝おんぶして下まで降りていたこと。夜遅くても電話が鳴れば文句一つ言わずに分厚い時刻表の本を見て何時に到着するか確認し、三女タカを王寺駅まで迎えに行っていたこと。おじいちゃんと私と三人で山に山菜を採りに行ったこと。おじいちゃんと大声で喧嘩していたこと。
 わたしの頭の中はまだまだパワフルなおばあちゃんなのだ。おばあちゃんもきっとそうだ。老いていく自分の身体にまだ気持ちがついていってないはず。
 でも、おばあちゃんの作るご飯の味は変わらない。昔も今も。身体は老いても味は変わらない。料理が作れなくなったらちょっと心配でもしよう。
結婚して離れたため、おばちゃんのご飯が懐かしい。今日何食べたい?って聞いてほしい。


#キナリ杯

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