見出し画像

土を焼く技① 愛知窯業のルーツ(猿投窯の成立)

古墳時代、窯炉を用いて陶土を焼成する須恵器が朝鮮半島から日本列島に伝わると、「高温焼成に耐える陶土」「燃料用の薪(木材)」「窯場設営に適した丘陵地」のそろう現在の大阪府堺市周辺でいち早くその生産が始まった。陶邑窯の成立である。

まもなくこの技は同様の資源のそろう現在の愛知にも伝わる。名古屋市昭和区では県内最古の関連遺跡(東山111号窯)が確認されており、ここで焼かれた須恵質の埴輪は熱田神宮に隣接する東海地区最大の前方後円墳・断夫山古墳の墳丘を飾った。その後、新たな薪や丘陵地を求めて窯場の移動が繰り返され、現在の瀬戸市と豊田市とを分ける猿投山の西南麓一帯(長久手市、日進市、東郷町、みよし市、刈谷市、豊田市などにまたがる20㎞四方の丘陵地帯)にまで生産地が拡大していった。こうして古墳時代より南北朝時代までの約900年間に築かれた1,000基におよぶ古窯を総称して猿投山西南麓古窯跡群(猿投窯)と呼ぶ。

須恵器を焼成する穴窯の内部を再現 (みよし市立歴史民俗資料館)

飛鳥時代、猿投窯で焼かれた須恵器(食器、貯蔵具、調理具、仏具、文具など)は朝廷をはじめ列島各地の寺社、官衛、豪族へと供給されており、この頃すでに組織的な生産体制と高いブランド力を誇っていたことは確かである。奈良時代になると、それまで国内最大勢力だった陶邑窯と肩をならべる規模へと成長。平安初期には、中国の越州窯青磁を模した人工施釉陶器である緑釉陶器(釉薬の成分は鉛と銅。品目は須恵器と同様)や灰釉陶器(釉薬の成分は植物灰。品目は須恵器と同様)の生産も始まり、猿投山の西南麓一帯は国内窯業の先進地域となった。なお、緑釉陶器は近江(滋賀県)、山城(京都府)、丹波(兵庫県)といった西日本地方の有力窯でも焼かれたが、灰釉陶器は猿投窯とその技が伝わった尾北窯と渥美窯に限られる特産品だった。

猿投窯で焼かれた須恵質の仏塔 (奈良時代。みよし市立歴史民俗資料館)
猿投窯で焼かれた灰釉陶器 (平安時代。みよし市立歴史民俗資料館)

このように古代期を代表するハイブランドとなった猿投窯だったが、需要の増加を受けて大量生産されるようになった灰釉陶器の品質が悪化し、平安中期には窯の操業を停止してしまう。平安後期になると、質素な山茶碗を焼く専業窯として活動を再開し、以後東海地方に限って製品供給を続けたが、南北朝時代には操業を完全停止した。しかし、施釉の技は現在の瀬戸市周辺を拠点とする瀬戸窯へ、土を焼き締める技は知多半島を拠点とする常滑窯へと引き継がれ、紆余曲折を経て今日までその命脈は保たれている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?