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木を削る技① 清洲越しと木工業の成立

ほんの半世紀ほど前まで、木材は生活インフラから日用品、機械製品といったさまざまな分野で活用される万能の素材だった。これを扱う技、すなわち、木を削る技が名古屋を中心とする愛知に本格的に根づいたのは江戸初期のことである。

徳川家康は慶長8年に江戸幕府を開いた後、大坂城(豊臣氏)の包囲網強化と水害対策のため、それまで尾張の主城だった清洲城に代わる新たな城の普請と遷府を計画する。こうして選ばれた地が熱田台地のへりに位置する名古屋で、慶長15年に築城と城下の町割りが始まった。そして慶長17年頃から数年がかりで遷府が行われ、6万の人、100の寺社、67の町がまるごと清洲から名古屋へと移った。

この「清州越し」を通じて、三つの重要な産業資源が新都・名古屋にもたらされることとなった。一つ目は人。城普請を請け負った西国大名が自領から呼び寄せた職人、清洲から移住してきた職人である。二つ目は素材。初代尾張藩主・徳川義直が婚礼の支度料として父・家康から譲り受けた信濃(長野県)の木曽山(良質な木材)である。そして三つ目はインフラ。木曽や飛騨(岐阜県)の木材を運搬するために開削された運河・堀川と木材管理のために設営された施設・白鳥貯木場である。まずこれらは、町づくり、すなわち、城下の生活インフラ(家屋、橋梁、水道施設など)の整備へと向けられた。

尾張の新城となった名古屋城 (大小天守・本丸御殿。復元)
木を削る技の展開事例  名古屋城本丸御殿の欄間(復元)

やがて関連の技は、6万人の暮らしを支える日用品分野にも展開され、さまざまな製品が誕生していった。たとえば、寺請制度の確立とともに仏壇仏具が庶民の必需品となり、江戸初期に尾張仏具(飾師が始めたという。木曽ヒノキを使用)が、元禄8年(江戸前期)には名古屋仏壇(高木仁右衛門の創業した仏壇店・ひろやがルーツ。木曽ヒノキやケヤキを使用)が成立。また、庶民の生活水準の向上にともない需要の高まった名古屋桐箪笥(飛騨桐を使用)や曲物(桶や樽。木曽サワラを使用)の生産も江戸初期より始まっている。あるいは、芸能文化の発展を受けて太鼓や三味線といった和楽器もつくられた。

醸造の現場で使われた大樽を再現(ミツカンミュージアム)

ここで注目されるのは、江戸後期以降、木を削る技(万能の素材を加工する技)が専門業者(職人)だけでなく、尾張藩士の内職(職芸)としても蓄積されるようになったことである。これによってものづくりの担い手が広く育ち、後に近代的な諸産業が愛知に根づく素地となった。

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