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土を焼く技⑦ 生活インフラ分野への進出 その1

明治時代における二つ目の展開は、生活インフラ分野への進出である。当時、国内では生活様式の西洋化にともなう建材の置きかえ(木から土へ)が進んでおり、愛知でもさまざまな建築用陶器が実用化された。

その代表例の一つ目が煉瓦である。国産初の煉瓦は江戸末期に長崎で焼かれたが、愛知における嚆矢は明治11年、常滑の陶工・鯉江方寿の金島山窯による。これに士族授産場・東洋組(本社は田原。同15年設立)の刈谷分局、西尾分局などが続き、その後は県下の窯業各地、特に西三河南部を中心に起業が進んだ。代表例は、同28年、岡田平六・松太郎親子が根崎(安城市)に設立した根崎煉瓦工場(現岡田煉瓦製作所)である。同社製品は全国各地に送られ、地元愛知では、丸三麦酒醸造所や日本陶器などの工場用建材として採用された。

根崎煉瓦工場製の煉瓦が使われた 丸三麦酒醸造所(現半田赤レンガ建物)

二つ目はタイル。明治時代を迎え、欧州製の平物タイルが外国人住宅の室内装飾材として国内に持ち込まれると、窯業各地で国産化が進んだ。瀬戸では染付の本業敷瓦(本業タイル)の生産が明治中期より始まり、国産初の量産タイルとして建物の壁や床、水周りに用いられた。また、昭和3年に開窯した山茶窯製陶所(陶芸家・小森忍)では、高い釉薬の技による美術タイルが焼かれ、日本橋高島屋や名古屋市庁舎などの内装を飾っている。

瀬戸窯の本業敷瓦(本業タイル) (INAXライブミュージアム)

一方の常滑では、明治20年代より土管を焼いていた陶工・伊奈初之烝が、同43年頃、ドイツ製品を模した国産初のモザイクタイルを開発、新たな床材として普及した。腕を買われた初之烝は長男・長三郎とともに、帝国ホテル煉瓦製作所(常滑)の技術顧問に就任して、大正7~10年の間、帝国ホテル本館(東京都)の外壁を飾るスクラッチタイルやテラコッタの生産に関わった。同13年、伊奈親子は煉瓦工場の従業員と設備を引き継ぎ、伊奈製陶(後のINAX、現LIXIL)を設立した。
また、名古屋の不二見焼(陶工・村瀬亮吉)らによって、イギリス製品を模した多彩色タイル(和製マジョリカタイル)が明治末期に製品化され、東南アジアなどに送られている。

横浜松坂屋本館のテラコッタ(伊奈製陶製。INAXライブミュージアム)

そして三つ目は便器。瀬戸では、江戸末期より木製便器をまねた陶製便器が、明治12年頃からは磁製便器も焼かれていた。同24年に濃尾大震災が発生し、家屋復興用の需要が高まったことを受け、瀬戸の陶工・加藤紋右衛門らは小便器や大便器の量産を開始した。
一方の常滑でも、江戸末期より陶製便器が焼かれたが、土管が主力となったため、生産は増えなかった。しかし、アジア・太平洋戦争の終結間もない昭和20年末、伊奈製陶が便器生産を開始し、後に土管とならぶ常滑の主力事業となる。

染付花図小判形大便器(瀬戸磁器。INAXライブミュージアム)


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