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土を焼く技② 尾北窯と渥美窯(猿投窯の技の拡大)

古代期を代表するハイブランドとなった猿投窯は、増加する需要に応えるため、その技を周辺地域へと伝えた。

早くも飛鳥時代には、現在の小牧市篠岡に窯場が築かれ、猿投窯の技を受けた須恵器の生産が始まった。尾北窯の成立である。以後その周辺地域である犬山市や春日井市の丘陵地にも窯場は広がり、須恵器に加えて瓦なども多く焼かれるようになった(小牧市東部の丘陵地だけでも、110基以上の窯跡が見つかっている)。奈良時代に入ると活動を一時停止したが、奈良中期頃から須恵器生産を再開し、後に緑釉陶器(尾北窯では篠岡のみで生産された)や灰釉陶器(尾北窯で広く生産された)へとシフトしている。これらの生産は平安中期頃に最盛期を迎えて、東海地方や近畿地方を中心に流通した。さらに平安後期になると、猿投窯と同様、施釉陶器から無釉の山茶碗の生産へとシフト、供給先は東海地方のみとなり、平安末期には操業停止したとみられる。

奈良~平安時代に尾北窯で焼かれた灰釉陶器 (小牧山歴史館)
尾北窯で焼かれた記銘瓦(小牧山歴史館)

また、猿投窯の技は陶土が豊富にとれた渥美半島にも伝わっている。平安後期頃、同半島には伊勢神宮領や三河国衛領が置かれており、神官や貴族の需要に応えるための須恵器や瓦、灰釉陶器などが焼かれるようになった。渥美窯の成立である。最盛期には、半島全域にわたって窯場が展開され(500基以上の窯が築かれたという)、半島という水運の利を活かして、東海地方のみならず東北地方や近畿地方、九州地方など広域にわたって製品が供給された。その広域な活動を示す事例の一つとして、陸奥・水沼窯の存在が知られている。平安末期、奥州藤原氏により招かれた渥美の陶工が、現在の宮城県石巻市水沼に窯場を築き、渥美の技を模倣した陶器を焼いたという(ただし、陶土の品質がよくなかったため、30~40年ほどで操業停止)。一方で、中央との強いつながりを示す事例もみられる。建久6年(鎌倉初期)に奈良の東大寺大仏殿が再建された折には、渥美半島先端の伊良湖地区に専業窯が置かれ、大仏殿向けの屋根瓦が焼かれた。このように高い実力と名声を誇った渥美窯だったが、鎌倉中期になると山茶碗の生産へとシフトし、鎌倉末期には操業を停止している。

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