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土を焼く技⑨ 機械産業への進出

明治時代における三つ目の展開は、工業用陶磁器、すなわち、機械産業への進出である。その背景には、ときの政府が日露戦争(明治37~38年)後に推し進めた国内産業構造の転換(軽工業から重工業へ)という政策があった。以下の事例はいずれも、愛知で培われてきた磁器焼成のノウハウを使って実用化されたものである。

まずは高圧碍子である。明治20年に国内初となる電力供給が東京で始まったが、当初は小型の直流発電機と特定の消費者が直結された小規模な低圧電力(直流電気)によるものだった。その後、電力需要が伸びたため、大規模な発電所を設けて高圧電力(交流電気)を供給する方式へと転換していくが、漏電防止に必要な高圧碍子は高価な輸入品に頼る状態が続いた。同39年、日本陶器と芝浦製作所(現東芝)は共同でアメリカ製品を手がかりにその国産化に着手する。そして大正8年には、日本陶器の碍子部門が独立して日本碍子(現日本ガイシ)が誕生、本格的な生産が始まった。
なお、電話などに用いる電信用の低圧碍子は、肥前(佐賀県)の第8代・深川栄左衛門(明治3年に初の国産化)や瀬戸の加藤杢左衛門(同6年より生産開始)ら磁器生産地の陶工によって、早い段階で国内生産が始まっていた。電力供給が始まった同20年代は、直流電気だったこともあって、こうした国産の低圧碍子が送電用に用いられた。

日本初の高圧碍子 (日本ガイシ会社案内より)

続いてはスパークプラグである。日本碍子は、後に同社第2代社長となる江副孫右衛門のアメリカ訪問(大正9年)に端を発し、ガソリンエンジンの機能部品・スパークプラグの研究に着手、昭和5年にその国産化を果たす。「いずれ発展するであろう日本の自動車工業に国産のプラグを供給したい」との希望によるものだったという。同11年には、同社から独立した日本特殊陶業によってその生産が本格化し、当時愛知の主要産業となっていた航空機向けに供給された。

碍子製品の数々(昭和中~後期頃。瀬戸蔵ミュージアム)

最後は工業用研削砥石である。明治40年頃から食器の仕上げ加工用の研削砥石を内製していた日本製陶は、昭和14年に軍の要請を受け、機械部品の加工に欠かせない工業用研削砥石の生産に乗りだした。そして同18年、折からの戦争の影響で陶磁器の対米輸出が不可能となる中、軍需産業向け資材の需要が大きく増加したため、食器生産を一時中止して砥石生産へと全面転換している。

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