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糸を紡ぐ技、編む技① 愛知繊維業のルーツ(絹と木綿)

弥生時代、朝鮮半島から手織り機(腰機)が伝わり、日本列島でも麻や絹の衣料が織られるようになる。これがいつ頃愛知に伝わったのか定かではないが、奈良時代には地域の特産品として知られる存在になっていた。当時、尾張・三河産の絹白糸や絹織物が租税(調)として朝廷に献上され、特に三河産は精白な糸を高密度で織りあげた高級品として扱われた。天平勝宝2年(奈良時代)の『正倉院文書』には「白絹布」と強調して書かれており、絹を納めた11か国の中で明確に区別されている。また、延長5年(平安中期)の『延喜式』からは、絹を納めた12か国のうち、三河産が最上級とされ、納品量も他国の倍以上だったことがわかる。

写真はアイヌが使用していた腰機(トヨタ産業技術記念館)

一方、『日本後記』の延暦18年(奈良時代)の条には、天竺(西尾市)に漂着した蛮船(外国船)に搭乗していた崑崙人によって綿種がもたらされたとの記載がある。これが日本に伝来した綿の最初の事例だが、日本の気候にあわず繁殖できなかったという。鎌倉時代になると、宋(中国)や朝鮮半島から木綿衣料が輸入されるようになったが、供給先は貴族や寺社の関係者に限られる高級品だった。

そして迎えた室町後期(15世紀末)、日本の気候に適した明(中国)産の綿種が輸入されると、早い段階で三河にも伝わり、綿栽培と白木綿(白無地の木綿織物)の生産が始まっている。奈良の興福寺大乗院による『永正年中記』の永正7年(室町後期。16世紀初頭)の条には、「三川木綿」の存在が記録されており、当時、三河産の木綿が畿内で流通していたことがわかる(文献上にみる最古の国産木綿)。

木綿や竹などを編んだ 火縄銃点火用と思われる縄(年代不明。新城市長篠城址史跡保存館)

合戦の続いた室町時代、木綿には高級布地のほか、軍用品(兵布、火縄、幔幕、旗指物など)の素材という役割があった。こうしたこともあって、永禄年間(室町末期)に三河を平定した徳川家康(当時松平氏)は地域の木綿業を保護したといい、家臣に対して「妻を迎えるにあたり、よく木綿を織る者を求めよ」と命じていたとの伝承も残る。その後天正18年(織豊時代)、豊臣秀吉から関東移封を命じられた際には、三河商人(後に江戸で木綿問屋を開業)をともなって江戸に下向するなど、故郷の木綿業との関係を維持した。
そして家康に代わって岡崎城主となった田中吉政の治世時には、現在の岡崎市板屋町に木綿の市がたち、板屋木綿として取り引きされていたという。産業振興に長けた吉政の功績に違いないが、彼の岡崎時代は10年と短いため、この間に木綿業をゼロからおこしたとするには少し無理がある。そこには家康時代からの継続性があったはずである。

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