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糸を紡ぐ技、編む技④ ガラ紡績と機械紡績

江戸時代、東日本地方を中心に発展した生糸は、鎖国が解かれた後に重要な輸出品となる。しかし、輸出量の急増にともなって粗悪品が出回るようになり、品質改善と生産体制の整備が必要だった。一方で海外からは、安価で高品質な綿糸や綿布が輸入されるようになり、前近代的な国内の木綿業は打撃を受けてしまう。明治時代を迎え、政府はこれらの対策として国内繊維業の近代化(産業化)に力を注いだ。そんな中で愛知の糸の技は大きな成長をとげていく。

まずは綿糸を紡ぐ技である。
明治6年に長野県の臥雲辰致が発明した和紡機(ガラ紡)は、構造が簡単なうえに、効率よく綿糸を紡ぐ機械として全国に普及したが、特に導入の進んだ地域が西三河だった。その背景には、元来木綿業が盛んだったことに加え、地域事情に適した稼働法を採用できたことがあった(矢作川の水流を動力源にした「水車ガラ紡」。同10年代より各地の木綿商が手がけた)。しかし、糸むらが多く量産が困難だったため、同20年代には均質な細糸を量産できる洋式機械紡績に主役の座を譲り、以後、糸質を活かした太糸生産(帆前掛生地、布団袋、足袋底など)に活路を見いだした。

ガラ紡機(愛知大学中部地方産業研究所)
撚糸機(愛知大学中部地方産業研究所)

その洋式機械紡績だが、大平(岡崎市)の官営模範工場・愛知紡績所で明治14年より始まっており(日本初でもあった)、イギリス製のミュール精紡機によって紡がれた高品質な綿糸は各地の織布工場に供給された。やがて民間の動きもおこり、名古屋紡績(同18年。村松彦七ら)、尾張紡績(同20年。奥田政香ら)、津島紡績(同27年。青樹英二ら)、一宮紡績(同28年。土川弥七郎ら)、知多紡績(同29年。小栗冨治郎ら)などの設立が相次いだ。これら地元資本による紡績工場はその後、合併による資本強化を図りつつ生産規模を拡大していく。一宮紡績は日本紡績(現ユニチカ)と合併し、ほかは東洋紡績(現東洋紡)の愛知県内工場となる。同時に、日清紡績(現日清紡ホールディングス)をはじめとする県外資本による大規模工場の愛知進出も活発になった。

こうした紡績業の原料となる綿花については、明治10年代はガラ紡、洋式紡績ともに地元愛知産が使われていた。しかし同20年代、安価で高品質なインド綿への切り替えが進み、明治末期には愛知の綿栽培は終えんを迎える。一方でこの頃、輸出向けの生糸が伸びていたこともあって、県下の綿農家の多くは桑栽培への転換を図っていった。

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