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鉄を鍛える技、鋳る技③ 西三河に根づいた鉄の技

続いては、西三河の鉄を鋳る技の動向である。

もっとも古い事例として、正応2年(鎌倉後期)、河内(大阪府)の鋳物師・安藤三郎五郎が菅生(岡崎市)に移住して、梵鐘をはじめとする仏具製作に従事したとの記録が残る。以後安藤家は、三河守護・足利尊氏の安堵状(文和3年《南北朝時代》)、戦国大名・松平元信(後の徳川家康)家老衆の安堵状(天文24年《室町後期》)、岡崎藩主・水野忠善からの御用拝命(寛文10年《江戸前期》)といった時時の支配者による権威付けを得て、近郊の寺社向けの仏具をつくり続けた。

また、寛文5年(江戸前期)、近江(滋賀県)の鋳物師・木村重左衛門が矢作(岡崎市)に移住し、大浜(碧南市)の国松家(碧南鋳物)から仕入れた炊具の販売を開始した。元禄2年(江戸前期)、木村家は安藤家の屋敷内に引っ越して、安藤家の下請けとして炊具製作を行うようになる(安永8年《江戸中期》には安藤家も自ら炊具製作を開始)。さらに文政3年(江戸後期)には、岡崎藩の御用達商人に取り立てられて梵鐘や大砲などを鋳造。大砲については、岡崎藩のほか寺部藩(豊田市)や田原藩などにも納めている。
現在、安藤・木村両家を総称して菅生鋳物と呼んでいる。

菅生鋳物(木村家)による鰐口 (永禄7年。西尾市資料館)

あるいは、西三河南部でも江戸時代の間に関連の技が成立、その遠因となったのが、慶長8年(江戸初期)に徳川家康がおこした矢作新川(現在の矢作川下流の川筋)の普請だった。翌年、新川が完成すると、新たな河口(現在の西尾市米津町)を通じて大量の土や川砂が内湾(現在の西尾市西部や碧南市東部あたり)へと流れこむようになる。その結果、数十年ほどで内湾一帯は浅瀬となっていったが(以後干拓事業が進展)、このとき新川の水流の運んだ川砂が鋳物砂に適した粒子の細かなものだったのである。

徳川家康が開削を命じた矢作新川(西尾市米津大橋よりのぞむ現在の川筋)

まずは寛文11年(江戸前期)、近江の鋳物師・太田庄兵衛が西尾藩の招きに応じて平坂(西尾市)に出店し鋳物業を開始、享保元年(江戸中期)に同地に定住した(平坂鋳物)。さらに延宝4年(江戸前期)には、同じく近江の鋳物師・国松十兵衛も大浜に移住し鋳造業を開始している(碧南鋳物。燃料になる木炭は矢作川上流から、鋳物砂は知多方面から調達)。二つの技はともに牛久保(豊川市)の鋳物師・中尾家の統制のもと、青銅製の仏具製作に始まり、後に鉄製の炊具も手がけた。

碧南市の松江稲荷社の境内に立つ 碧南鋳物発祥地の碑

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