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土を焼く技⑧ 生活インフラ分野への進出 その2

明治時代における二つ目の展開(生活インフラ分野への展開~建築用陶磁器)の続きとなる。ここでは土木事業向けの事例を紹介する。

まずは土管(陶管)である。明治時代を迎えてまもなく、鉄道施設や都市の下水道整備のため、頑丈で形状が統一した近代土管の需要が急速に高まる。こうした中、江戸後期に赤物の土樋(土管のルーツ)を手がけた常滑の陶工・鯉江方寿は、近代土管の開発に着手した。試行錯誤を重ねた末の明治7年、木型を使って同一形状に成型した土を高温で焼き締めた真焼土管(常滑陶管とも呼ばれる)の開発に成功し、京阪鉄道の敷設用に納入した。その後方寿は、全国各地から受注した土管を自らの窯(金島山窯)で焼きつつ、事業に参入してきた地域の陶工たちの指導にあたるなど、常滑の土管産業の発展に貢献した。

鯉江方寿による真焼土管 (INAXライブミュージアム)

その後昭和20年代に常滑の土管生産は最盛期を迎えたが、やがて素材の置き換え(土から樹脂へ)が進み始め、水道管としての役割は徐々に失われていく。その一方で新たな役割も生まれた。たとえば、杉江製陶(明治39年、杉江竹次郎が常滑で創業。本社は現在武豊町)が同26年に開発したボルト締め多孔陶管は、地中埋設ケーブル保護用の土管として、各地の道路、トンネル、空港、ふ頭などに敷設されている。

進化した現代の土管「杉江製陶の多孔陶管」とかつての真焼土管(とこなめ陶の森)

また、陶磁器そのもの(土を焼く技)ではないが、人造石(工法)も外せない。今日の土木工事になくてはならないセメントだが、その国内生産は明治8年に始まった。しかし、当時のセメントは高価なうえに、水中でうまく固まらず、治水や護岸といった工事には不向きだった(本格普及は同30年代後半のこと)。こうした中、棚尾(碧南市)出身の左官・服部長七の考案した人造石が土木工事で重要な役割を担うこととなる。同9年に誕生し、長七たたきとも、三州たたきとも呼ばれたこの人造石は、真土(風化した花崗岩。当初は三河産を使用)と石灰とまぜて水で練り、たたき締めたもので、材料が安価で大量入手が可能なうえに、水中においてはセメントより強固な構築物を築くことができた。そのため、国内各地の護岸や治水の工事で広く用いられており、地元愛知では、神野新田堤防(豊橋市)、牟呂用水(同)、熱田港護岸(現在の名古屋港。名古屋市)などの工事で使われた。
なお、化学物質を使用しない環境にやさしいインフラ建材であることが評価され、平成11年には、カンボジアの世界遺産アンコール遺跡の修復に採用されている。


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