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土を焼く技③ 瀬戸窯と常滑窯の成立(猿投窯の技の継承)
列島各地の有力窯が無釉の山茶碗を焼いていた平安後期、猿投窯から施釉の技を引き継いだ瀬戸窯では、国内唯一となる灰釉陶器の生産が始まった。鎌倉中期までは、仏具や大型の貯蔵具を中心に手がけ、東海地方のみならず、幕府の置かれた鎌倉(神奈川県)などにも供給された。鎌倉後期になると、中国の建盞(けんさん)天目を模した鉄釉陶器(酸化鉄を含んだ釉薬を使用)が生み出され、以後、生産品目は食器(茶陶・瀬戸天目が有名)や調理具といった小型陶器へとシフト。列島各地の有力都市に供給されている。
このように中世期を代表するハイブランドとなった瀬戸窯だったが、織豊時代には織田信長が進出した美濃(岐阜県)へと陶工が集団移住し、窯の数を減らしていった(瀬戸山離散)。
ところで瀬戸窯のルーツについては、「鎌倉初期、宋(中国)で窯業を学んだ陶工・加藤景正(藤四郎)が瀬戸で窯を開いた」と伝わってきた。しかし昭和30年代以降、考古学の観点から猿投窯と瀬戸窯とのつながりが解明され、この伝承は否定されるようになった。
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一方、土を焼き締める技を引き継いだ常滑窯では、平安後期より無釉の山茶碗が焼かれるようになり、後に仏具や実用性の高い大型の貯蔵具へとシフトしている。列島中央部に位置し、海上交通の要衝だった知多半島を生産拠点(半島全域で窯場が展開)としたこともあり、水運を利用して大量の製品が全国の主要都市へと送られた。また、平安末期から鎌倉時代の間には、京や鎌倉の寺院のほか、地元熱田神宮の瓦も手がけている。こうして常滑は中世期国内最大の窯業地となり、蓄積されたノウハウは丹波(兵庫県)や信楽(滋賀県)、越前(福井県)といったほかの窯業地にも伝えられた。
しかし天正2年(織豊時代)、信長により、瀬戸以外での窯炉設営を禁じた「禁窯令」が尾張国内に発せられ、これを機に衰退に向かったという。
なお、室町時代に茶を飲む習慣が日本にも定着し、備前(岡山県)、丹波、信楽、瀬戸といった有力窯は茶陶を手がけるようになる。織豊時代、常滑城主の水野守隆は常滑で焼かれた茶陶(水指)を千利休に献上したと伝わるが、これはまれな事例だった。時代の流れに逆らって伝統的な実用陶器に傾注したことも、常滑窯が衰退した理由の一つではないか。
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