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木を削る技③ 機械産業への進出/化学工業の創出

明治時代における二つ目の展開は機械産業への進出である。鉄(鋼材)が十分に普及していなかった黎明期(明治初~中期)の国内機械産業界では、ギヤやシャフトなどの可動部品には鉄を、フレームやボディには木を使った木鉄混製の製品が主流だった。愛知の木を削る技はこうした分野でも活躍の場を得ている。

早くも明治5年頃には、名古屋関鍛冶町の堀田吉兵衛による人力車の生産が始まっており、同じ頃、荷車の生産も盛んになったという。その後、名古屋初の時計工場・時盛社(時計商・林市兵衛が同20年設立)による西洋時計(ボディには木曽ヒノキを使用)、静岡県出身の発明家・豊田佐吉による国産初の動力織機(同29年)、日本初の民間鉄道車両会社・日本車輛製造(尾張藩士出身の実業家・奥田政香が同29年設立)による鉄道車両(ボディには木曽ケヤキを使用)などが誕生していった。

林時計製造所(明治24年、時盛社より改称)による西洋時計(小島健司著『明治の時計』校倉書房より)
国産初の動力織機「豊田式汽力織機」 (トヨタ産業技術記念館)

また、先述した浅野吉次郎の手がけた合板はその耐久性が評価され、大正時代になると、国産航空機のボディ、プロペラ、フロートなどの素材としても利用されている(国内独占供給だったという)。そして昭和23年には、名古屋の実業家・正村竹一が考案したパチンコ台(国産初)のボディ材としても使われた。

三つ目の展開は、新分野・化学工業の創出である。機械産業の発展にともない、その主要資材となる接着剤、強化ガラス、安全ガラスなどの生産が愛知でも行われるようになった。特に航空機用資材としての開発が進んでおり、これを主導したのが、愛知時計製造(五明良平ら数名の実業家が明治26年に設立。現愛知時計電機)と、同社から化学部門が独立して誕生した愛知化学工業(昭和11年設立。現アイカ工業)、すなわち、木を削る技だった。

昭和30年代を迎えると、耐久性などの問題もあって、万能の素材は木から金属や樹脂へと急速に置きかわり、これ以降、愛知の木を削る技の活動領域も限られたものになっていく。しかし一方で、この技を通じて県下に蓄積されたものづくりの各種ノウハウが、国内の基幹産業となる機械分野(自動車や工作機械など)に展開され、同分野の成長の推進力となってきたことも事実。こうした意味で、愛知の木の技の重要性や存在感がこの先も失われることはないだろう。

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