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糸を紡ぐ技、編む技⑥ 三河木綿の展開

愛知の糸を紡ぐ技は官・民あげたものだったが、編む技は民間主導で展開された。

まずは西三河の動向だが、江戸時代以来の綿産地だった西尾、安城、岡崎では、賃機による三白木綿(三河木綿)生産が踏襲された。明治10年代には、従来の高機に代わる新式のバッタン機(高機にフライシャトル機構を組み込んだフランス式の手織り機。生産性は高機の2倍)の導入が進み始め、その後は地域によって異なる展開をみせている。

高機にフランスの技術を組み込んだバッタン機(トヨタ産業技術記念館)

西尾では、手織り機による手工業レベルながら、明治13年に★製糸場が創業するなど、工場生産への転換が早い段階から進んだ。そして同20年代半ばには高能率な足踏機や輸入動力織機を導入した近代的な工場が、さらに同30年代には大規模工場も出現した。たとえば、同32年に尾崎久治らが創業した尾崎織工場は、発明家・豊田佐吉による国産動力織機を西尾で初めて導入、その数38台を誇った。

一方の安城や岡崎などでは日露戦争(明治37~38年)の頃まで工場化は進んでいない。明治末期頃には動力織機を導入した工場がいくつか出現したものの、主流はあくまでも賃機生産だった。むしろ両地域では、同20年代より生糸生産へのシフトが進んでおり、綿栽培、綿織ともに衰退に向かっていたというのが実態である。

東三河では、三谷(蒲郡市)を中心に動きがみられた。
明治8年、三谷の小田時蔵は自宅二階を工場に改造し、遠州(静岡県)製のバッタン機20台を導入して内機を開始する。翌年には、同じく三谷の武内せきが祖父江(稲沢市)より縞木綿用の機経台を導入して縞織物の生産に着手した(三河縞の嚆矢)。こうして同10年代には、白木綿(三河木綿)と縞織物(三河縞)という製品構成が整い、同20年頃からは三河縞が主力となっている。その後、綿織布の需要が増加し、同39年には、愛知県三河織物同業組合が遠州製の足踏機200台を共同購入し、地域全体として生産性向上が図られた。さらに同43年には、塩津(蒲郡市)の小林礼三によって足踏機を改造した動力織機も試運転され、生産費の減少に貢献した。

あるいは明治初期に、漁村という地域性のもと、片原(蒲郡市)において麻綱業がおこり、同39年には、壁谷安右衛門によって綿ロープ・麻ロープの生産も始まっている。

三河縞の見本帳 (豊田市近代の産業とくらし発見館)

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