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鉄を鍛える技、鋳る技② 東三河に根づいた鉄の技

鉄を鍛える技、鋳る技の活動は東三河でも確認できる。

まずは鉄を鍛える技だが、その代表例が吉田鍛冶で、南北朝時代に河内(大阪府)から牛久保(豊川市)に移住した鍛冶集団がルーツと思われる。永正2年(室町後期)には、牛久保領主・牧野氏の今橋城(後の吉田城)普請に従って吉田(豊橋市)へと拠点を移した。江戸時代になると、東海道筋の吉田宿に定住して農鍛冶を営んでいるが、特に「吉田鎌」はよく切れると周辺地域で評判となり、商売は繁盛したという。なお、吉田にはこうした居鍛冶のほか、東三河の村々や遠江(静岡県)の新居を巡回する出鍛冶の存在もあった。

稲刈鎌(イメージ)

一方で、この地域の鉄を鋳る技の中心だったのが中尾鋳物である。南北朝時代、河内の鋳物師・中尾氏が牛久保に移住して青銅製の仏具(梵鐘)製作を開始したと伝わる。以後、室町時代の三河守護・一色氏(知多ほかの守護も兼任)、その家臣だった羽多野氏や牧野氏らの保護を受け、周辺地域向けの仏具製作にあたった。特に牧野氏とは深い関係を築いて、天文7年(室町後期)、東三河における鐘鋳の栽許を得た。さらに天正17年(織豊時代)には、諸国の鋳物師を統制していた朝廷の地下官人・真継家から勅許鋳物師の裁許を得ている。中尾家はその後も真継家との関係を維持しつつ、明治初期にいたるまでの間、三河国内の鋳物師を統制する役割を担い続けた。
また、元禄年間(江戸前期)になると中尾家は、それまでの青銅製仏具に加えて、鉄製炊具の製作も開始した。文化文政年間(江戸後期)には、大坂の金物問屋との間で大坂以西の一手売捌の契約を結び、さらに嘉永2年(江戸後期)、大型船を共同購入して大釜や鍋を大坂へと大量供給するようになった。これらの炊具は「三州釜」と呼ばれて西日本地方を中心に人気を集めたという。その需要は明治時代から昭和時代にかけても途切れることなく継続した。この間、中尾家のみならず三河各地の鋳物業者も競って鉄製の大釜を製作し、これを全国各地に送っている。

写真は明治時代の岡崎の鋳物師(西三河の菅生鋳物)・木村善助による三州釜(カクキュー八丁味噌・史料館)

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