見出し画像

鉄を鍛える技、鋳る技① 尾張に根づいた鉄の技

古来より鉄(金属)とは、人々の暮らしや活動をより高度なものへと変える重要な素材だった。武具(刀剣、鐙、鉄砲など)を通じて強力な軍事力が、農具(鋤、鍬、鎌など)を通じて生産性の高い仕事が、炊具や調理具(鍋、釜、包丁など)を通じて豊かな食生活が実現できる。さらには、仏具(梵鐘や仏像など)を通じて厚い信仰心を表現できる。このため、鍛冶や鋳物師たちは時時の地域支配者の保護下に置かれ、多くが成立の地に根ざして技を磨き、これを後世へと伝えていった。

尾張の鉄を鍛える技の代表例が大野鍛冶である。鎌倉時代、近江(滋賀県)の鍛冶集団が海上交通の要衝・大野(知多市、常滑市)に移住する。以後、歴代の地域支配者(鎌倉時代の関東御家人・須佐氏、室町時代の知多の守護・一色氏やその家臣だった佐治氏ら)の保護を受け、武具鍛冶や舟鍛冶に従事した。江戸時代には武具の需要が減少したため、農鍛冶や舟鍛冶へとシフトし、やがて尾張藩最大の鍛冶集団となる。農閑期には三河、遠江(静岡県)、美濃(岐阜県)、信濃(長野県)の村々を巡回して、鍬や鍬の修理を請け負う出鍛冶も行ったほか、藩の御時計師・津田助左衛門家の統制下で和時計製作にも関わった(津田家は寛政9年《江戸後期》より藩の鍛冶頭も兼任)。

知多に根づいた鉄を鍛える技 (大野鍛冶の農具。年代不明。知多市歴史民族博物館)

また、詳しい来歴は不明だが、熱田神宮修理の鍛冶職だった尾崎氏をルーツとする尾張鍛冶は、現在の名古屋市熱田区あたりで武具製作に従事したと伝わる。室町後期から江戸初期にかけて手がけた「金山鍔」で名をはせた。

一方、鉄を鋳る技の代表例が水野鋳物である。これも詳しい来歴は不明だが、上野(春日井市)の鋳物師・初代水野太郎左衛門は、永禄5年(室町末期)、織田信長から判物を得て、仏具(梵鐘ほか)や武具(火縄銃ほか)の製作に従事した。信長の死後は豊臣秀吉の支配下に入り、その縁で文禄2年(織豊時代)、2代目太郎左衛門のときに清洲へと活動の場を移す。さらに3代目太郎左衛門は、清洲越し(慶長17年《江戸初期》頃から。徳川家康の命による)にともない名古屋へと移住。以後水野家は、代々藩の鋳物師頭として尾張国内の鋳物師の統制にあたりつつ、仏具や武具をはじめとする多彩な製品を手がけた(嘉永7年《江戸後期》には大砲鋳造にも成功している)。

名古屋に根づいた鉄を鋳る技 (水野鋳物の喚鐘。享保12年製。名古屋市博物館)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?