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糸を紡ぐ技、編む技⑧ 知多木綿と名古屋の織布業

江戸時代、白木綿と晒で名をはせた知多では、明治時代もこれらが引き継がれた。同18年頃になるとバッタン機の導入が進んで生産量が増加、同22年には県内最大の綿産地となる。しかし、所詮は手織り機による不安定な生産体制だったため、高能率で品質の安定する動力織機の待望論が高まっていく。

こうした中、岡田(知多市)の加藤六郎衛門らは同29年に中七木綿を創業し、知多初の輸入動力織機を使った機械織布を開始した。同31年には、乙川(半田市)の石川藤八が発明家・豊田佐吉とともに乙川綿布を創業。佐吉開発の動力織機60台を導入して大規模な機械織布を開始している。同社の綿布は従来機では織り出せない仕上がりをみせ、東京の三井物産の目にとまったという。あるいは、岡田の竹内虎王は同31年、自前の動力織機を開発して自社工場(後の竹内木綿工場《丸登織布工場》)に設置した。

また、織布工場と歩調を合わせて、明治20年代以降、★晒業(同22年。加藤初太郎。岡田)や木綿晒工場(同23年。竹内初次郎。八幡《知多市》)をはじめとする新たな晒工場も続々と誕生していく。
こうして知多は昭和初期頃、松阪(三重県)、和泉(大阪府)とならぶ三大綿織物の産地になった。

明治時代の知多晒のパッケージ(知多市歴史民俗博物館)

最後に名古屋の織布業だが、ほかの地域よりも遅れた展開となったものの、最終的にはさまざまな素材を扱うようになる。まずは明治10年代に、愛知物産組(同11年。祖父江重兵衛ら。木綿縞や絹綿交織。同32年より毛織も)、東益社(同12年頃。絹織)、與益社(同13年頃)、県立織工場(同14年。絹綿交織)などが創業した。
そして明治20年代以降は拡大期へと移行し、地元資本を中心とした工場が続々と誕生していった。田中織物(同20年。綿毛布ほか)、愛知織物(同23年。絹綿交織)、名古屋製織会社(同26年。木綿布)、帝国撚糸織物(同29年、滝兵右衛門ら。絹織)、御幸毛織(祖父江利一郎。同40年に毛織に着手)、豊田自動織布工場(同44年、豊田佐吉。後の豊田紡織、現トヨタ紡織。綿織)などが代表的な事例である。

ここまでみてきたように、江戸時代、三河木綿に端を発して展開された愛知の糸の技は、明治時代になると、市場ニーズや各生産地の特性をふまえた多彩な糸(綿、生糸、羊毛、レーヨン)を扱う技へと進化をとげた。その結果、愛知の繊維産業は全国第一位の規模へと成長し、「繊維王国・愛知」と呼ばれるようになる。


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