ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』米川和夫訳

 苦悩の袋小路に至ったとき、ギュポンと筒状のものの内と外がひっくり返るように道化になる作家の系譜というのがあるだろう。道化である自分を描く、というのではない。読者に対してそうなるという作家。ゴンブローヴィッチもそういう1人なのではないかと思ったりする。

 苦悩、それも自意識の苦悩だ。「ぼく、精神!」と幼児語で叫びたくなるような。

 語り手を始めとする登場人物は、マジックリアリズム的に変身に次ぐ変身を重ねさせられてしまう。「おちり」をくっつけられて純粋な少年にさせられたり(名詞のお尻にくっつく縮小辞の比喩なんだろうか)、無理矢理下品になったり、情熱的に愛を語る駆け落ち青年にさせられたり。かわいそう、精神なのに。

 そしてギュポンの瞬間というのは、その場にいる人々がひっくり返って絡み合って1つの得体の知れない塊になってうごめいているといった、文字で書かれたコンテンポラリーダンスのような場面に見出される。

 それにしても翻訳がすごそうだ。「二十世紀は長十郎より水けがあって上等なのだろうか?」なんてふうに梨と時代の話を引っかけた駄洒落が出て来る。原文が分からないから評価のしようもないけれど、名人芸だって雰囲気がある。翻訳のアクロバティックな側面として駄洒落や言葉遊びばっか注目して/されてしまうのはよくない傾向だと思うのだが、まあ。


ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』米川和夫訳、平凡社、2004年

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