フォレスト・ガンプの痛ましさ

 映画に対するよりもこれがヒットしていたことへの怒り、と言えばそれは怒りなのだろう。軽度の知的障害を持ち、限りなく非性的な純真さと主観的幸福を持つ人物としてでっちあげられたフォレスト・ガンプは、そうした性質のためにどういうわけか(for some reason)次々とわらしべ長者的に成功していく。それは自らが差別し搾取し排除しているものの主観的幸福を持ち出すことで免罪されたい私達の欲望をやさしく満たそうとしてくる。差別しなかったり差別しなくなった人との麗しい関係とともに。

 その個人的な物語の裏面にはアメリカ近代史がぴっちりと縫い付けられている。あるいはアメリカの銃殺の歴史が。銃によって斃れる何度ものショットと記録映像に去勢不安を見るならば、そこからつねに走って逃げ出すフォレストは(性)成熟を拒否して周縁化された何者かとともに都会を逃げ出すフィードラーが描き出して見せたアメリカ文学の原型に連なる主人公なのかもしれない。

 一方、彼はもっぱら客体化されたアイコンであったわけではない。フォレストがきちんと差別や加害を受け取っていることを示すひとつの痛ましいシーン。ジェニーとのあいだに自分の子供が出来ていたことを知ったときに、その子が自分と同じような知的障害を抱えていないかを怯えながら問い質す場面だ。彼が後ずさるのはジェニーが言及するような責任の所在といったもののためではない。フォレストは自らが受けてきた仕打ちの意味をきちんと承知している。その上で彼は様々なものの傀儡となり、利用され、引き回され、彼がまるで理解していないということになっている"歴史"に、脚本によって、SFXによって縫い付けられてきた。だから尚更無邪気さを強いられていることが痛ましい。それが分かるだけ、ほんの一瞬の、この映画の良心のような箇所だとさえ思う。

 フォレストだけではない。唯一じっくり描かれる黒人キャラクターであるバッバはひっきりなしにエビ漁の話をし続ける無邪気で脳天気な青年でしかない。親からの性暴力の記憶に苦しみながら自分の生き方を見つけ出そうとしているジェニーや戦死だけを自らの運命であると定めていたにも関わらず下肢を切断せざるをえない状態で生き延びて、当初は自らの命を救ったフォレストを憎みながらやがて折り合いをつけていくダン中尉と彼らは、どれだけ違った扱いを受けているだろう。

 そういう意味でこれは全然好ましい物語ではない。

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