ALSと安楽死

武術研究家のモノノフです。最近事件がありましたので、少しこの話題に触れていきたいと思います。僕は法整備をされた中で、治らない病気にかかり、寝たきりになったりしたひとには安楽死の権利があってもいいのではないかと考えている派です。本人がそれを望み、家族も本人の意思を尊重するならということになるとは思いますが。
ただ、誤解のないように言っておくと、今回ALS患者を安楽死させた医師2名に関しては事情が違います。この医師2人に関しては明確に非難します。あまり、そういうことはしないようにしていますが、これは非難します。

さて、最近でいうと僕が三浦春馬さんの死でも触れたようにALSで佐伯チズさんが亡くなられました。ALSは佐伯チズさんのように数ヶ月で亡くなってしまう場合と、数年生きる場合とあり、それはひとによってかなり誤差があります。僕が知っているひとでALSで10年以上生きた方も知っています。僕は佐伯チズさんの死は美容家としての誇りを感じたという話をしました。佐伯チズさんのように積極的な治療を行わずに亡くなることを『尊厳死』と言います。治らない病気で本人の意思確認などもあり、医者などの第三者によって薬などで死に至らしめる場合、これを『安楽死』と言います。

僕は『尊厳死』がかっこいいとか、『安楽死』させるべきだという話をしているのではありません。何が何でも生きるんだという価値観もいいし、やるだけやってダメな時は勝手に死ぬんだから、治療をやるだけやってよでもいいのです。山本寛斎さんの時にも触れたように、

『どう死ぬかはどう生きるか』と同じ

なのです。その決定は本人の意思を最優先すべきではないかと思うのです。大事なことは

本人の意思を明確にすること

だと考えています。仕事や武術研究のこともあり割と身近に『死』というものを感じ生きてます。その時に思うのは『死』というものもしくは『死』の間際には本当にそのひとがどう生きたかということが現れるのです。みんなから愛されて最期の時に家族全員が集まるひと、自分勝手に生きて最期に「家族に会いたかった。」と言いながら亡くなるひと、仕事一筋で生きてきて家族を顧みず必死に家族のためと思って働いてきたひとが「もっと家族のために時間を使うべきだった。」ということもあります。それぞれ色々な思いがあるのです。

これらに共通しているのは本人がどう生きたかが『死』というものには溢れているのです。中には「家族のために必死に働いてきたのに、見舞いにすら誰もこない。恩知らずなやつらだ!」というお父さんがおられました。僕は家族の方に思うことがあるのだろうと思いましたが、本人は気がついていません。そういう生き方をしてきたのです。

僕自身かなりの仕事人間なので、ひとのことが言えない節があるのです。『死』というものを迎える時でも家族に感謝こそすれ、仮にどんな暴言を吐かれても非難したりはしないで、ただ謝るのみにしたいなと思いました。

このようにどう生きるかがどう死ぬかに直結します。事故や事件では少し違うことになることがありますが、原則そうなります。そういうことを意識すると生き方が変わらないかなと思う今日この頃です。

モノノフ


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