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『地震と虐殺』を書かれた安田浩一さんに、取材し書くことについてききました

6/30㈰、浅草・Readin’Writin’ BOOK STOREで行った
ノンフィクションの書き手に“取材し、書くこと”についてきく、
「インタビュー田原町11 安田浩一さん」の記録(約19000字)です。

開演10分前、会場では「京成線」という唄を流してもらっていました。
安田さんの最新刊『地震と虐殺 1923-2024』(中央公論新社)の中に、この唄を歌っているシンガーソングライターの李政美(イ・ジョンミ)さんの話が出てきます。安田さんへのインタビューは、安田さんが彼女の唄を知った経緯をきくところから始めました。




©️Readin’Writin’ BOOK STORE


話し手・安田浩一さん
聞き手・文🌙朝山実

安田浩一さん(以下略) 取材するまで僕もよく知らなかったんですけど、毎年9月に荒川の河川敷で、亡くなられた在日コリアンのための慰霊式が行われていているんですよね。そこに在日コリアンのシンガーが来て歌う。何度か、イ・ヂョンミさんも出られていて。
彼女は葛飾区で生まれ、高校生のときには京成線に乗って通学していた。その京成線が懐かしいという唄ではなくて、この鉄橋の下には「埋もれたままの 悲しみ眠る」という一節があります。
つまり、この橋げたの下には関東大震災のときに虐殺された朝鮮人の魂が眠っています、という唄なんですね。

彼女が話すには、電車に乗りながら毎日この場所から逃げたかったという。
自分が暮らす地域は在日コリアンが集住する地域で、人間関係のしがらみ、下町の工場の臭い、両親からの抑圧、さまざまなものから逃げたかった。ひとりの人間として、自由に生きたいと思っていた。そして、ここから離れる手段として京成線があったというんですね。

🌙この電車に乗れば、遠くに行けるということですか。

そう。でも、大人になってみて、この場所がいまの自分をつくっているということに気づいてゆく。彼女は音大を出てからは歌手として、あるいは音楽の先生として生きていくわけですが、結局、自分が帰ってくる場所はここなんだ。戻る場所は、ここ以外にはない。つまり、朝鮮人虐殺のあった場所の上を通る京成線、それは常に彼女のアイデンティティとつながっている。
僕は、慰霊式で初めてこの唄を聴いて、李さんに話を聞いてみようと思ったんですね。

(中央公論新社刊)


鳶口を探しに行ってみた


🌙安田さんのルポの書き方の特色のひとつに、まずは外角に外したボールを投じる。さきほどの京成線もそうですけど、ほかにも「鳶口(とびぐち)」を調べに近くのホームセンターに足を運ばれている。朝鮮人虐殺の記録の中に必ず出てくるものですが。

当時、何を使って、朝鮮人のひとたちを殺していったのかということに関心があったんですね。
棒で撲り殺す。日本刀で斬る。竹やりで突く。
読んでいると胸が苦しくなるものばかりなんですが、もっとも多く使われていたのがトビグチなんです。
「鳶口を頭に振り下ろした」「鳶口で裂いた」という記述がいっぱい出てくる。
おおよその鳶口の形状はイメージできるんですけど、はっきりはわからない。ホームセンターに行けば、売っているんじゃないか。これが鳶口です、と写真を入れようと思ったんですね。

🌙それで買いに行かれた。

そう。「鳶口、ありますか?」と訊いてみたら、緑色のエプロンをした若い店員さんが「トビグチって、何すか?」
そりゃそうだよなあ。
「長い棒の先端に鎌みたいなものが付いていて」と説明すると、「ああ」と案内されたのが園芸コーナーで、「これですね」
見たら、2480円の値札が付いている。
商品名には「らくらく長柄草刈り」とあるんですよね。
これは草刈り鎌だなあと思ったので、立ち去ろうとした店員さんを呼び止め、
「冷凍マグロとかに突き刺して引きずっていくようなモノで」と説明したら、しばらく考えこんで「これでもいけそうじゃないですか?」
「いえ、そうかもしれないけれど」漢字にするとこういう字でとスマホを見せたところ、彼が本部とつながるもので検索してくれて「ああ、ありました!」というんですよね。

🌙あったんだ。

だけど、めったに出ないものなので「本店の倉庫から取り寄せになります」。値段も一万円を超えると言われたんですよね。
5000円くらいまでのものなら買って、写真を載せようと思っていたけれど。それでなくとも、つまんないことにお金をかけてしまっている。お金もないのに。
あちこち移動するのにお金がかかっているうえに、これに1万円は…というので断念した。
ですけど、知り合いの新聞記者が、鳶口ならここに行けば見られるよと教えてくれたんです。

安田さんが教えられて訪ねたのは、東京・新宿区の四谷消防署に併設されている消防博物館。
江戸時代の消火道具を紹介した展示品で、人形が手にしているのが「鳶口」。
因みに、現在の放水による「消火」の仕方は明治後期に主流になったもので、
それまでは延焼を防ぐため隣家を壊していた。
安田さんは「鳶口」の実物を目にして、これは「壊す」ためのものだ、
人に向けられた際に地域や社会をも壊していくものになっていったと理解したという。


消防博物館に展示されている鳶口

「壊す」ということでいうと、昭和のコメディアンで、伴淳三郎(伴淳と呼ばれた)さんという方がいらっしゃって、自伝(『伴淳のアジャパー人生』徳間書店)を見ると、子供の頃に関東大震災の虐殺を、さきほどの荒川の河川敷で目撃したと書かれている。
一節を読み上げると、
「その死体の顔へ、コノヤロー、コノヤローと石をぶっつけて、めちゃめちゃにこわしている」
つまり、人が切られたとか、殺されたというのではなく、人が、こわされていったという。

🌙子供の頃に見たという話ですが、バンジュンといえば当時人気絶頂の芸人。自伝の中に、しかも本筋ではない逸話である、朝鮮人虐殺の目撃談を詳しく残しているというのは驚きました。
これも安田さんの書き方ですが、ホームセンターに鳶口を探しに行ってみましたという日常の延長の出だしを入口にしているところが、エピソード展開としてユニークだと思ったんですけど。それは狙っていたことですか?

とくに深くは考えていなかったです。鳶口の写真がほしいと思っただけのことで。
ただ、ホームセンターから出てきたときに、鳶口は、いまは一般的なものではないということが体感できた。それと手に入らなかったのが悔しくて、あちこち言いふらすわけですよ。そうしたら消防博物館にあるよと教えてくれるひとが出てくる。
ぜんぶ偶然ですけど、伴淳の自伝にも結びつく。そうした積み重ねによって、風景が立ち上がってくる。僕が書くものはほとんどそうやって出来上がっている。文字にならならい90%は無駄足で終わっているんですけどね。

🌙無駄足でいうと、千葉の船橋にあった無線塔の跡地を探される章で、場所が見つけられず公園内にあった小さな売店に入ってみたら、という話が面白いですよね。

千葉県の船橋市の北西部に行田(ぎょうだ)公園いうすごく広い公園があるんですね。そこに無線塔があったという記述はいっぱい残っているので、今どうなっているのか。ネットで調べたら跡地の標はあるというので見に行きました。

石垣があって、ここに昔無線塔があったという記念碑が置かれていた。その下にプレートがはめられていて、ここから太平洋戦争の開戦を知らせる「ニイタカヤマノボレ」の無線を打電したという。
これは軍事マニアにはよく知られていることらしいんですが、関東大震災に関する記述も書いてありました。
関東大震災のときには、ここから救援信号を全国に流した。そのことで全国から救援物資が東京に届いた。重要な役割を果たした無線塔ですと。

🌙リッパなことをしたんだよと。

そう。でも、書かれていないことが重要で。じつはここからデマ情報が流されていった。
1923年9月3日。震災後の2日後に、内務省の警保局長、今でいう警察庁長官ですね。「鮮人」が各地に放火し、東京市内においては爆弾を所持し暴動を企てている、だから厳密なる取り締まりをしなさいという。
送信電文は、国立公文書館に所蔵、公開されています。
もちろんあとになって、そんな事実はなかったとわかるんですが。このデマ情報によって、お上が言っているんだから、朝鮮人が暴動を起こそうとしているんだとデマを補強されていったわけです。

たまたま入った古い商店の店番のお年寄りから


🌙安田さんらしいのは、その送信所跡の記念碑を探して歩きまわるんだけど見つからず、目にとまった小さな商店に入るんですね。そこから思いもしない展開になるわけですが。

あれは、ともかく公園が大きくて、道に迷ったんですね。無線塔の記念碑を示す案内図もないし。ひとに聞こうにも、若い人はわからないですよね。近所の家といっても、公園内にあるわけもなく、あたりは新興住宅地だし。
それで古い家屋を探したら、佐藤商店という看板が見えた。菓子パンと飲み物と文房具が並べてある。
そこに入ったら、佐藤ノブさんという当時93歳の方がいらっしゃって。「このへんに昔、無線塔があったそうですが?」と聞くと、ここをまっすぐに行ってと教えてくれたわけ。
そのときミカンを食べておられて、「これ、どうぞ」とミカンを一個もらい、申し訳ないからウーロン茶を買ったら、
「ここの無線塔はね、どこにいても見えたのよ」
だから家に帰るときの目印になったと話されて。その彼女が店番するヨコに貼ってあった紙が見えたんですね。「無線塔の形跡を辿る」と拙い文字で書かれていたA3ほどの。
「なんですか?これは」と聞いたら、地元の中学生が夏休みの課題で、無線塔のことを調べるレポートを書いたもので、佐藤ノブさんもインタビューされたんだという。その紙をペラッと剥がして、「何枚もコピーがあるから持っていきなさい」と渡してくれたんですよ。

🌖へえー。

そこには、無線塔がいつ出来て、どれくらいの高さで、いつまで在ったのかが書いてあって、すごく役立った。
そこからなんです。ノブさんが話された。
「昔はいろいろあってね、これは父親から聞いたんだけど、このあたりでもたくさん殺されたらしいですよ」と話されるんですよね。

🌙安田さんから、虐殺のことを調べているという話を?

まったくそういう話をしていないのに。唐突に、ですよね。
訊いたら、いまの東武野田線、当時は北総鉄道といっていたんですが、その鉄道建設に駆り出された朝鮮人がたくさんいた。その人たちが殺されたんですね。
「父親が言うには、船橋駅の北口の方では殺された朝鮮人の死体がずらっと並べられていて、それは大変な光景だったらしいですよ」と。
僕もこのときは、たまたま入った店で、無線塔と朝鮮人虐殺が結びついたことに驚きました。

🌙不勉強なのでお尋ねしますが、このお店の佐藤さんの証言は、何かの文献に出てきたりするんでしょうか?

出てこないと思います。

🌙ちょっとだけ脱線しますが、本の中で佐藤ノブさんのことを記述されている。フルネームとともに、商店の老女というふうには書かずに「お年寄りが店番をしていた」と書かれている。記述がやさしいなあと思いました。

そこは、うーん。僕の中では「お年寄り」というのは自然な言い方なんですけど。
老人、老女という言い方をすることもあるんですけど、そう書くことで、何だろう、自分は老人でも老女でもない立ち位置を強調することになりかねない。つまり、自分は若いんだという意識から、見下した物言いなりはしないか、ということは気をつけよう。そういうことで、「老女」という言葉は僕の中ではNGですね。

🌙なるほど。それで、壁に貼ってあったレポートから、安田さんは次に学校の先生を取材されるんですよね。政府などが虐殺についての公的な資料は残っていないと強弁する、その虐殺の証言を千葉の中学の「郷土史研究会」の生徒たちがクラブ活動の一環で地域の聞き取りをした記録(76年ごろに作成)と出会うんですよね。

そうなんです。
千葉県の八千代、習志野といわれるこの地域では虐殺があり、そこに軍が絡んでいたという事実を「証言」として捉えたのはジャーナリストでもなければ作家、研究者でもない。中学生だった。

🌒政府や行政が「ない」という資料、史実、証言を子どもたちが掘りおこしていくのがすごいですよね。

これも本の中に書きましたけれど、それはたまたまこの地域で虐殺の事実を調べている先生がいた。その先生と生徒が一緒になって地域の聞き込みをしていった。その小学校の学区の範囲内に限定したものですが、70年代のことなので、ここで虐殺があったということが証言によってはっきりしていく。その記録が後々、事実の解明につながっていくんですね。

🌙ルポとして読ませるところですよね。あと、神奈川県内でも、公的な文書に残っている虐殺は2件のみだとされているのだけど、当時、子供たちが震災について書いた作文集の中に、虐殺を目にしたという記述がたくさん出てくる。生々しさに驚きました。

震災の翌年に書かれたものですね。子どもは正直に書くんですよね。この作文の発見自体は多くの人が本にも書かれたりしているので、目新しいことではないんですけど。読むとドキッとするわけです。
たとえば、ちょっと読んでみますと、小学生の男の子が、
「朝鮮人が立木にゆわかれ竹槍で腹をぶつぶつ刺され、のこぎりで切られてしまいました」
どんな凄惨な殺人かと思いますよね。
あるいは、まわりの大人が棒でいっぱい突いているのを見て、
「わたくしも一ぺんつついてやりましたら、きゅうとしんでしまいました」
僕は、この子供の書いた、「きゅう」という表現にざわざわした。恐怖と不安を感じました。
最後の叫びなのか。身体が縮こまることだったのか。ただ、それだけで終わる。

つまり、この作文を読むと、何か自分がとんでもないことをしたというのでもない。朝鮮人は悪いことをするので死んで当然と思っているふしがある。
しかし、この作文から見えてくるのは、この子が如何に残虐だったのかということではない。当時の朝鮮人に対する日本社会のありようなんですね。


老舗の鰻屋で聞いた、虐殺を審理した裁判の実態


🌙そうですね。もう一つ。安田さんのルポだなあと思ったのは、これから鰻を食べますという書き出し。ふだんはそんな贅沢しないんだけど、と前置きした。あれはジバラなんですよね?

当然、とうぜん(笑)。

🌙そのお店は、震災で裁判所が壊れ、代用でその日本料理屋さんを借りていた。そこで自警団員たちを取り調べ、即決の裁判も行われていたという。

船橋駅の近くの立派な鰻屋さんで、僕はいつも高いものを食べるときには写真に撮るくせがあるんですよね。これ、4000円の鰻なんですけどね。

それで、なぜここを訪ねたのかというと、もともとここは歴史のある日本料理屋さんで、震災の前から裁判所や警察関係の宴会なんかも行われていた。
いまはビルですが当時は二階建ての日本家屋で、お座敷に裁判官や検事が詰めて、虐殺をした者たちを二階で取り調べ、即決裁判も行われた。
その裁判というのはすごく雑というか、虐殺行為に対して非常に軽い刑罰だったんですね。
ただ、いきなりそういう話をするよりも、鰻を食った話から入ったほうが読んでもらえるかなあと思ったんです。

🌙そのお店の主人から、先々代の祖父が先代の父にしていた震災の話を聞かれる。当時の取り調べの様子、祖父がどのように見ていたのかも伝わってくる。
捕まった人たちは、「よくやった」と表彰でもしてもらえると思い込んで出頭してきたのに、刑罰を科せられるというので怒りだす。虐殺の当事者たちが何を考えていたのか。貴重な伝承から、当時の裁判の様子が可視化されていきます。

僕も正直にいうと、殺す側の人たちの心象が理解できない。つくられた憎悪によって殺した人もいたかもしれない。役割だと思った、むしろ、アサヤマさんが言われるように、殺せば褒美がもらえると思ってやった人もいたんでしょうねえ。

🌙ここに出てくる鰻屋さんの証言、裁判の調書は何かまとまった本の中に出てきたりするんですか?

文献としては、このお店のことは出てこないですね。ただ、僕は、これをスクープだと言いたいわけではないんです。
週刊誌時代からスクープを抜くというというのは一度もなかったですし。いつも人の後をなぞる取材が多かったですから。だけども、取材する中で人が見落としていた風景が目に入ったら、それは取り入れたいと思っている。まあ、鰻屋のことを調べて書こうという人が誰もいなかったというだけのことですよね。

🌙鰻屋さんもそうだし、さっきの佐藤ノブさんも、安田浩一だなあと思いました。安田さんの特色のひとつは、話者の語りの面白さにあるというか。市井の人だからこそ前情報は誰ももっていなくて、話しぶりからその人に興味を持たせる構成になっていますが、それは意識されている?

こういう取材は百年前の話なので、直接の証言者がいない。そうするとオーラルヒストリーとして間接的に語ってくれる人を見つけ出すか、文献から拾い上げていくしかない。だけども、そうした話を読むというのは正直ツライですよね。論文としては成立できるにしても。
ツライと読まれない。読まれないと伝わらないですよね。
僕自身は、文献からの引用、再録ですませるのではなく、できたらその論文を書いたひとに会う。僕とどんな場面で会い、そのときどんな服を着ていたのか。背景にどんなものがあったのかは書きたい、これは常に思っていることです。

🌙それは、いつ頃からそういう考えになっていったんですか?

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