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インタビュー田原町04『仁義なきヤクザ映画史』を書いた伊藤彰彦さんにききました2/2

【1/2前編からのつづきです。“インタビュー田原町”当日、時間の制限もあり、どのようにして「映画史家」「ノンフィクションライター」となったのかを聞き逃したので、後日に行った追加インタビューです】


話すひと=伊藤彰彦さん
聞くひと🌖朝山実


伊藤さん
(以降略)   先日アサヤマさんのインタビューを受けて、知らない分野の人にきかれるということは面白いなあ、こんなに本質に迫るものかと思ったんですよ。映画の専門家で「実録ヤクザ映画が、実際にあった事件や逸話をもとに作るのはどうしてなのか?」なんて、匕首(あいくち)を突きつけるような質問をする人はいません(笑)

🌙うちの妻がアーカイブで見て「映画に詳しい人からすると、そんなことを訊くの?ということをしていたよね」だからハラハラしたと言われました(笑)。
さて、先日のインタビューは新刊を中心にして伊藤さんの独特なインタビュー術について聞いていこうとしたんですが、どうも松方弘樹の自伝本の話が大半になってしまって。当初の目論見が半分くらいしか達成できず、こうやって追加の取材をお願いしました。

わざわざ家の近くまで来ていただいてすみません。

🌙それで、伊藤さんのプロフィールにある「映画史家」、これは自称ですか?

自称です。個々の映画の良し悪しを書くのが「映画批評家」とよばれる人ですが、僕は良し悪しについては書かないし、書けない。たまたまその作品がダメだとしても次の作品のステップボードになる要素がかならずあって、映画史や映画と隣接する時代史の中で作品を観ていくのが「映画史家」だと思っています。
たとえば、先日お話に出た『極道の妻たち 死んで貰います』は、公開当時はほとんどの批評家が観ていないんです。ちゃんとした批評を書いたのは谷岡雅樹さんと野村正昭さんだけ。なぜなら、そもそもビデオ販売が目的の作品ですから、試写も封切りの前日に1日だけ。上映も2館で2週間限定だったからです。
当時、批評からは黙殺されたも同然でしたが、いま観返してみると「東映ヤクザ映画最後の傑作」といっていい映画ですし、高田宏冶さんの脚本は素晴らしいですし、前回話題に出たように、差別された人がたたかう拠点となった京都の地区の最後の光景が残されている作品でもあるんです。
こんなふうに、映画史や芸能史や日本の近現代史のスパンのなかで映画を見ていきたいなあと思い「映画史家」と名乗っています。

🌙『死んで貰います』を伊藤さんはリアルタイムで観られているんですか?

ええ。公開当時「新宿トーア」という映画館で観ました。当時28歳でしたが、観たあと立ち上がれないほど感動したんですよ。東ちづるが好きな男(原田大二郎)の楯になって撃ち殺される場面では、僕だけじゃなく、場内から鼻をすする音が聴こえました。

🌙確認ですが、伊藤さんは映画史家で、映画ライターではないんですね?

「ライター」は、稿料だけで食べられている方です。僕のようなコストパフオーマンスを考えないやり方で調べながら本を書いていると、原稿料や印税だけではとうてい生活が成り立ちません。生活は無署名記事や他の稼業で成り立たせているので、映画ライターと名乗るのはおこがましいんですよ。

🌙ニュアンスとして、たとえば郷土史家のようなことですか。

そう。郷土史家か、見通しなく古墳を掘っている考古学者。

🌙「映画」で生計を立てているわけでは?

ないですね。映画ライター、映画評論だけで生計をたてるには、雑誌の連載を3本は持たなくてはならないはずです。ですから、たてられている人は現在、20人未満でしょう。映画ライターという職業は、紙の雑誌がだんだんなくなり、Web媒体の原稿料は安いですから「絶滅危惧種」になりつつありますね。
これからのライターは、ライフワークとして本を書き、大学教師、校閲などほかの仕事で食べていくしかないと思います。僕の意識は、映画監督にとっての「本編」と近いですね。

🌙本編とはどういう?

80年代以降、製作本数が減って、多くの映画監督が映画(本編)だけでは食べられなくなります。テレビドラマを撮ったり、雑文を書いたり、映画学校で教えたりしながら生活を成り立たせ、ライフワークである本編を撮るときに勝負をかける。僕にとって「本を書く」ことは、そうした映画監督にとっての「本編を撮る」意識に似ています。
しかも、一般的に映画の本は売れて数千部。僕の場合、調べものを人に頼んだりすることもあり、交通費とか合わせると、印税の三分の一くらいが調査費に消えていきます。とくに『仁義なきヤクザ映画史』だと、46人にインタビューしていますが、わずかな謝礼であっても『文藝春秋』のカンバンがあったから応じてもらえたんです。申し訳ないので、その都度、お車代と菓子折りは著者持ちでやっています。ちゃんとした本を出してやっていこうとすると、いまはライターを本業としてやっていくのが難しい時代ですよね。

🌙たしかに。

たとえば、地方の取材に関しては、その土地の郷土史家のようなひとに委託します。松方本の取材でいえば、子供の頃に松方弘樹さんが東京の赤羽で空襲に遭い、「焼夷弾が落ちてくるのがきれいだった」という話を聞いた。浅草に落ちたのは3月の東京大空襲、5月に赤羽台とかに落ちているんですが。そのとき松方邸はどういう状態だったのか?
好意で引き受けてくだった郷土史家の方にお願いしたら、500枚くらいのコピーの請求が15000円。松方さんの住居がある町だけではなく、焼夷弾が落ちた北区の記録がすべてコピーしてある。一生懸命調べていただき、その中から松方さんの住んでいた家の空襲の記録が出てきたので、まあ、しょうがないんですが、ことほどさように、調査にはお金がかかります。

🌙そこまでして伊藤さんとしては、ウラをとらないと、書けないということですか?

ここはウラとらなきゃいけないところと、そうじゃないところがありますが、生まれたところをどういう経緯で離れたのかということ、空襲で壊滅状態にあったということはその人の本質にかかわることだと思い、押さえておかなければならない。ただ、それは僕のこだわりで、それは要らないと言う編集者もたくさんいます。そんなことより、早く書けと(笑)。

🌙なるほど。吉村昭さんが、わずか一行を書くために資料を探して探していくというのをエッセイで読んだのを思い出しました。

吉村昭さんの足元にも及びません。

🌙経歴でいうと脚本を書かれたのと、プロデューサーをされたのは、どちらが先ですか?

脚本ですね。中学のころから映画に魅せられて、大学時代には8mm映画を自主製作しました。ちょうど77年に「ぴあフィルムフェスティバル」というコンテストが始まり、映画監督になれるかもしれないと応募するんですが、いつも一次審査通過止まり。学校を出て映画会社、制作プロダクションを受けるんですが、ことごとく落ちたんです。
一般企業に就職したんですが、なんとか映画に近づきたくて、コマーシャルの下請けの現場に入るわけです。そこで弁当配り、車輛担当から始めて、小学館の「ピカピカの一年生」のプロダクションマネージャーになったところで身体をこわして、そのときは月に100時間くらいの残業でした。
80年代後半のバブル経済期で、広告代理店のスポンサーとCMディレクターが「××ちゃん、今晩仕事が終わったら、モデルをつれて札幌に飛んで、スミレに味噌ラーメン食いにいこうよ」と話しているのを聞いて、この世界で生きていくのは無理だな、と(笑)。

🌖合わないと

合わない。それから、レストランのマネージャーをやったり米屋の配送をやったり、堅気の地味な仕事で生業を立てました。それでも、映画の仕事があきらめられなくて、映画の脚本だったら昼間働きながらやれるんじゃないかと甘い考えを抱き、98年にコンクールに応募するんですけど、これが2位で。
それで脚本の下書きとか、プロットを書かせてもらいましたが、脚本家としてはデビューできませんでした。それから10年間お金を貯めて、共同出資者を見つけて。斎藤工さんを主役に、色川武大が書いた若き日の話を自分で脚本にして映画をつくりました。

🌙『明日泣く』(内藤誠監督・2011年)ですね。伊藤さんの脚本で、製作も?

ええ。好きな映画なんですが、興行が振るわず、製作資金を半分しか回収できなかった。斎藤工さんはそれからブレイクし、内藤監督も25年ぶりに復活し、次の作品を撮ることになるんですが、プロデューサーの僕にとってはステップボードにならなかったんです。
借金を抱え、出資者の方から「しょうがないよ。会社の損金で落とすから」となぐさめられ、余計に落ちこんで、これでもうさすがに映画は終わりだなと、最後にいちばん影響を受けた映画人に会いに行ったんです。
『北陸代理戦争』、『復活の日』(深作欣二監督・1980年)、『極道の妻たち』(五社英雄監督・1986年)などの脚本を書いた高田宏治さんです。
高田さんは当時、35歳年下の奥さんと護国寺の100坪くらいあるヴィンテージマンションに住んでいました。家具はみんなイタリア製。ところが、窓からの風が吹き抜けると、家具に貼ってある札がサラサラと鳴るんですよ。
よく見ると、それは差し押さえの赤札でした。
聞けば、高田さんは若い奥さんにお金を残すために、ヤクザがオーナーのビデオシネマ製作会社の社長になり、最初は儲かったんですが、やがてヤクザが高田さんの実印を無断で使って公文書を偽造し、それがぜんぶ高田さんの借金になった。数億円の債務を抱え、債権者と係争している最中だったんです。
高田さんはじつに魅力的な人で、そんな境遇でありながら、悠然と小説を書いていました。それから僕は平日は仕事をし、週末になると高田さんを訪ねました。

🌙なるほど。

裁判を傍聴し、高田さんがヤクザに追いこみをかけられ、山梨、滋賀、東京へと住居を転々とするのを手伝い、高田さんは色んな話をしてくださいましたが、『北陸代理戦争』のことだけは「思い出したくもない」と。
自分の書いた脚本がモデルの組長をけしかけ、抗争事件を煽り立て、自分たちが親分を取材した「喫茶ハワイ」の同じ席にいたところを襲撃される。
高田さんが書いた脚本のなかの、松方弘樹が襲われるシーンをなぞったかのように射殺された「あの事件はつらかった」と後悔していました。
けれど、高田さんは「いつか使えるかもしれない」と思ったのか、親分を取材したときのテープを残していたんですね。それを聞くうち、現実の射殺事件と映画の射殺シーンが符号したことは単なる偶然なのか、それとも敵が意図的に映画と同じシチュエーションを選んで殺したのか、を僕は解き明かしたくなってきたんです。
高田さんの紹介で会った『北陸代理戦争』のプロデューサーの奈村協さんから、親分(映画では松方弘樹が親分を演じた)が殺されて半年後、大阪に潜伏して仇をつけ狙っていた暗殺隊長が、お別れを言うために撮影所の奈村さんに電話をかけてきた。それからまもなく、テレビで暗殺隊全員が逮捕されたニュースが流れたと聞いて、僕は俄然彼らに会いたくなりました。
それで取材依頼の手紙を親分の長男の川内亨さんに出すんですが、返答はなく、撮影所でも、かつて仕事した組の人たちの消息はもう誰も知らない。彼らに連絡のとりようがなかったんです。

🌙それで、ちょくせつ福井を訪ねて行った?

ええ。そのとき僕は「北陸代理戦争事件」の真相を解明するホンを書かねばならない。それが自分が「映画」に爪痕を残せる最後のチャンスだ、とすでに思い定めていました。それに、これはドキュメンタリー映画になるのではという思惑もあって、小さなビデオキャメラを鞄にしのばせ、とりあえず北陸本線に乗って、事件の現場である芦原温泉駅(福井県)に行ってみたんです。
駅舎を出たとき、読売新聞記者の黒田清さんが「見知らぬ土地に行って何かを見つけようと思ったら、古くてボロい飲み屋に入れ。タクシー会社の古い運転手から話を聞け」と書いていたのを思い出したんですね。
さっそく駅前のタクシー会社に行って、いちばんベテランの運転手に観光案内を頼むと、そのひとは何と、35年前に親分に挨拶に行く深作欣二と松方弘樹を乗せた運転手だったんですよ。

🌙黒田清の言葉は正しかった。

そう。しかも、運転手は暗殺隊の一員だったひとの従弟と高校の同級生で、僕を暗殺隊にいたひとの家に連れて行ってくれたんです。けれど、その彼は険しい表情で「あの映画のことは、この町ではやたらに聞かんとき。あんなものを作ったから親分は命を早めたんや」とにべもありませんでした。

🌙そういう見方はあるんでしょうね。

その人にキャメラを向けようとしましたが、「この町でみんなが、あの映画を恨んどる」と言われ、鞄から取り出せなかった。そのあと、いまは極道から足を洗い、土建屋の下請けや、公園の清掃の仕事をして生計をなりたたせているという人たちを訪ね歩くんですが、彼らの迫力にたじろぎ、ボイスレコーダーを向けることはできても、キャメラは向けられませんでした。

🌙伊藤さんがご自分で撮るつもりだったんですか?

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