マンガ・小説のアニメ化に関する気づき

こんにちは、木幡慶です。

最近(といってもここ十数年)、マンガや小説原作の作品の映像化が頻繁に見受けられるようになりました。それはオリジナルで大規模な劇場用映画を作ることのリスクを鑑みた結果なのかもしれませんが、何にせよ人気作品の映像化は大きな話題性があり、特に昨年公開された『鬼滅の刃 無限列車編』は史上稀に見る大ヒットとなりました。

『鬼滅の刃』の成功を受け、ヒットしたマンガや小説を映像化するという流れは今後も主流となっていくように思います。しかし、紙の媒体の作品を映像に起こすというのは、決して簡単なものではないはずです。それは、マンガ・小説・映画といったそれぞれのジャンルが、各々の媒体特有の演出技法と構成を以て作られているからです。そのため、映像化の際、紙⇒映像への転換に伴って必要な演出を取捨選択、あるいは追加することになります。今回は、原作を持つ作品のアニメ化について、私が感じた気づきをご紹介したいと思います。

1. マンガ⇒アニメの映像化の場合

昨今の映像化のパターンとしてはこれが最も多いでしょう。初めから絵を持っているマンガだからこそ、アニメに描き起こすのはとっつきやすいように思います。ただし、両者では紙面と映像で媒体が全く異なるという点も忘れてはなりません。まずはマンガの特徴を考えてみましょう。

マンガの特徴を簡単にまとめると、①「各々のペースで作品を読める」、②「コマの大きさを変えることで場面ごとに印象の強弱を付けられる」の2つだと考えます。①は文章の通りです。映像ではないため、読者は作品を読む速度を自在に変えることができます。戦闘シーンはテンポよく、悲しいシーンはじっくり、というようにです。自分の読みたいように読み進められるため、ストレスを与えません。②はマンガならではの特徴です。コマの大きさを変えられるからこそ、例えば見開き1ページでクライマックスの感動を演出するように、場面の重み付けをすることができます。これは特にコミカルなシーンを入れる際に有効で、キャラクターが茶々を入れる際、あえてコマを小さくすることで読者の目に映る時間を少なくし、ギャグのくどさを軽減することができます。

次に、映像の特徴を考えてみましょう。簡単にまとめると、①「視聴者は決まったペースで作品を鑑賞する」、②「1つ1つの場面が同じ画面で一続きに表示される」、③「映像と音で表現する」の3つだと考えます。①ですが、視聴者は目の前で流される映像を作品の一定のペースで観ることになります(これはひとえに、「動き」と「音」は時間に連動するためです)。当然、視聴者は自分のペースで鑑賞することはできません。②ですが、映像という媒体の性格上、場面は全て、同じ画面に収まる形で投影されます。そこには場面ごとの強弱はなく、全ての絵が平等に表示されます。③については、2項「小説⇒アニメの映像化の場合」で触れましょう。

では、マンガのコマをそのままに、原作通りにアニメ化したらどうなるのでしょうか。

コミカルなシーンを例にとると、マンガからアニメへの映像化の難しさが浮き彫りになります。上記で触れたように、マンガではコマ割りの工夫によってコミカルなシーンのくどさが軽減されていましたが、映像にするとその印象は異なります。映像では、どんなシーンも「決まったペース」で「同じ画面の大きさ」で表示されます。つまり、マンガにおける演出上の工夫は全く意味をなさなくなるのです。これはシリアスなシーンとコミカルなシーンの混在時に特に顕著であり、たとえマンガでは気にならなかったとしても、映像になった途端、視聴者は違和感を抱くことになります。なぜなら、シリアスな物語の流れに突然、切り替わるようにコミカルなシーンが流れてしまうからです。アニメ化された作品を観て「なんだか間延びしている」と感じたことがあるのだとしたら、おおよそこういった箇所の齟齬が原因でしょう。マンガだからこそできる演出をそのまま取り入れようとすると、一続きに映し出される映像の世界ではどうしても、視聴者の作品への没入を阻害してしまうのです。

考えてみると、これらの齟齬はマンガという媒体の特殊性によるものであることがわかります。というのも、私達が体感している日常というのはマンガのように「体感時間を自在に操れる」ものでも「場面によって印象の程度が異なる」ものでもないからです。私達の体感する慣れた日常は、映像と同じく、「決まったペース」で「同じ画面の大きさ」で過ぎるものなのです。マンガの魅力の中には上記で触れた独自の特徴によって生み出されるものが多々ありますが、それを上手く映像に落とし込むには一層の工夫が必要になると思われます。

2. 小説⇒アニメの場合

最近ではWEB小説の人気原作がアニメ化されることが多くなったのもあり、小説からアニメへの映像化もそこそこの支持を得ているように思えます。ここでも1項「マンガ⇒アニメの映像化の場合」と同様に、まずは小説の特徴を考えてみましょう。

小説の特徴を簡単にまとめると、①「各々のペースで作品を読める」、②「文章のみで語られる」の2点だと考えます。①については1項「マンガ⇒アニメの映像化の場合」で触れた通りです。②ですが、「文章のみで語られる」というのは非常に多様な意味を持っています。小説の世界では、物語は「語り手」によって語られます。一人称であれば語り手は「私」であり、世の小説に多く見られる三人称一視点であれば語り手は「任意の登場人物」になります(海外の小説にはいわゆる「神」の視点で語られるものも見られます)。読者は上記のいずれかの語り手の視点で物語の世界を体感するため、客観的に物語を俯瞰する映像作品とは異なり、語り手の主観で世界を歩き、彼らの感情を直に読み取ることができます(ただし「神」の視点は除く)。そして映像とは異なり、全てが文章で表現されるからこそ、情景描写がなくとも「誰が語り手か」は自明のものになります。説明しやすいよう、下記の語り手を想定しましょう。

語り手:人の体を失い電子生命体となった男性A

男性Aは思考します。ただし男性Aは肉体を持ちません。そして彼がいるのは何もない空虚な電子空間です。つまり、この場面では客観的な映像として男性Aを表現できる要素は何一つありません。しかしこんな状況でも小説では男性Aを描くことができます。なぜなら、三人称では地の文で男性Aの名前をはっきりと明記するからです。男性Aが存在し、思考していることは情景描写がなくとも自明なものとなるのです。この場合、読者の視点は男性Aの主観に沿ったものとなり、読者は男性Aが見つめる茫漠とした電子の海の世界を想像するでしょう。

では、これをアニメに描き起こそうとしたらどうなるのでしょうか。

先の1項「マンガ⇒アニメの映像化の場合」にて、映像の特徴として③「映像と音で表現する」を挙げました。これは逆に言えば、「映像と音でしか表現できない」ということです。先ほど、上記の男性Aを客観的に表現できる要素はないと書きました。つまり、男性Aは小説という技法だからこそ表現可能なのであり、アニメで原作通りに表現するのは実質的に不可能ということになります。実際にアニメにするのであれば、声だけで表現するわけにもいかず、おそらく男性Aには肉体が与えられるでしょう。その時、小説世界で読者が味わう主観的な視点は、外から男性Aを見つめる客観的視点へと変わり、(良し悪しはさておき)作品の読み取り方に違いをもたらすことになります。場合によっては、原作小説とアニメ作品との間で演出上の齟齬が生まれ、原作の持ち味を大きく損なうこともあると思います。

ここまで読まれた方は、私が突飛な例を出していると考えられるかもしれません。しかし、これはとある人気原作のアニメ作品の実例を見て、筆者が実際に感じたことなのです。小説の世界というのは、読者にとって大抵理想的なものに美化されます。これまで様々な作品を読み漁ってきた方ほどその傾向は顕著でしょう。読者は自分の想像通りの登場人物や世界を小説の中に見ます。だからこそ、媒体の違いで生まれるような些細な齟齬であっても、人に与える印象の大きさは馬鹿にならないのです。


人気原作のアニメ化が決まった際、よく、「原作通りにやってくれ」という声を見かけます。原作の人気は元々の物語の面白さによるものなのですから、これは筆者も最もだと思います。ただし、上記で紹介した通り、媒体の特色に注意し、どう表現すべきか工夫することも大切なのだろうとも最近感じています。

筆者は演出家でもなんでもありません。しかし、マンガであれ小説であれ、それら原作の良さを損なうことなく映像作品に仕立てるというのは大変骨の折れる仕事だろうと感じます。素晴らしい作品を作り上げてくれるクリエイターの方々に敬意を表しながら、筆者は今日も好きな作品の鑑賞に勤しみます。

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