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民族教より人類教へ ——折口信夫

昭和二十二年二月二日、神社本庁創立満一周年記念講演会筆記。

 神道にとつては只今非常な幸福な時代に来てゐる。かういふ言ひ方は決して反語ではない。正しい姿を今まで発揚しなかつたのを、今になつて発揚させようとする希望が湧いて来てゐるからである。
 人類教と民族教とのお話をするのは他の宗教を圧倒せんとしてるるのではない。神道を世界に広めるのは世界を征服せんとしてあるものではなく、そんな考へは偶、先輩の国学者たちの研究が、一部の人達によつて極端に解釈されて来たから起つたのである。
 我々の考へてゐた神道は、今になつて思ひ直してみると神道のある部面のみを考へて、それが神道全体であると考へてゐた。こんな反省が我々の心の中に起つてゐる。我々の持つてゐる信仰を世に普遍化してゆく以上は、それに適した要素を発揮せねばならぬ。神道は普遍化に大いに努力しなくてはならない。いすらえる・えぢぷと地方に起つた信仰がだん/\拡つて、遂に今日のきりすと教にまでなつたやうに、神道の中にある普遍化すべき要素を出来るだけ広めてゆくことは大切である。我々が幸福であるやうに人類全体も亦幸福にすることは、我々の持つよき素材を人類に寄与する、せめてもの貢献である。そのためにも神道のよき精神を普遍化した、神道の宗教化が必要なのである。
 神道は今まで幾多の難関を経て来たが、宗教としての神道は非常に若いといへよう。極端にいへば本年は二歳とも言へるかも知れない。実際、我々が神道を宗教として扱ひ、宗教として考へ、宗教としての情熱を注ぎはじめたのは極めて新しいことである。即、その信仰は円熟してゐるだらうが宗教としてのそれは未誕生と言へるかも知れない。といふのは我々は、これから大決心と深い情熱とをもつて神道宗教の建設に向ふところであるからだ。
 現在は神道宗教を生み出す「生みのなやみ」の時代である。只今は神道宗教の地盤はほゞ固った。併し完全な神道宗教を宣言する人は出てゐない。今まで出たかも知れないが、それは神道家としての自覚がなかつた。或時は仏教の色彩を含み、又他の宗教的な色彩をもつてあた。時機のわるい時代の宗教化は、圧迫をうけて消えてしまつたことがどの位あるか知れない。宗派神道が残ったのはそれが現れた時機は、政治力がこれを抑へつけることが出来なかつた時代にあったのによるのである。
 神社宗教も今後における困難はどの位か訣らない。全神社人はこれを自覚して、結束して艱難に当らなければならない。もつと/\苦しまねばならぬ時は来るであらう。又それがなければ現在の努力は水泡に帰してしまふ。今まで神道が真の宗教とならなかつたのは、多くの障得があつたからだ。それは先づ第一に、我々自身が神道を宗教として認めなかつたことであるが、現在は幸ひ、此心配はなくなつた。第二には、神道と宮廷との関係が非常に深かつたことが大きな障得だつた。
 神道と宮廷とが特に結ばれて考へられて来た為に、神道は国民道徳の源泉だと考へられ、余りにも道徳的に理会されて来たのである。この国民道徳と密接な関係のある神道が、世界の宗教になることはむづかしい。それはだん/\人類とは遠のいた道徳となり、世界の人に関係の少いものになつてしまふ。そんな神道が世界的な宗教となるべき筈はないのである。宮廷と結びついてゐた神道は、こんな不都合な点をもつてゐた。併しながら天皇は先に御自ら「神」を否定し給うた。それにより我々は、これまでの神道と宮廷との特殊な関係を去つてしまつた、と解してよい。私は日本の宗教の真の姿を見ようと思つて三度、沖縄へ渡つた。沖縄では何でも歴史的な由緒ある処を「をがむ」「をたけ」と言ひ、村の古い関係深いものは「をがむ」とされて来た。「神さぶ」は神が神様らしい性格を表すことから、老人が老人らしくなる時にも使ひ、又その他にも種々使はれた。古くなれば神様の領域に入つて行くといふ思想が、日本にはあったのである。それが今日まで誤解に誤解を重ねて行ったのである。神社人の方々は、天皇御自ら神性を御否定になったことは神道と宮廷との特別な関係を去るものであり、それが亦、神道が世界教としての発展の障碍を去るものであることを、理会されるであらう。
 神道は余りにも光明・円満に満ちた美しいものばかりを考へてをり、少しも悩みがない。記紀を見れば古代人の苦しみが訣つて来る筈であるが、日本人の苦しんだ生活を考へようとはしなかつた。神道が他の宗教と違ぶ点は、その中に罪障観念がないことである。近年の宗派神道ではこれがやゝ認められるが、これも少いと言へる。古事記に素義鳴尊の罪悪のことがあるが、それは余りにも叙事詩的に現れてゐるので、宗教的な罪悪観念が少い。尊が犯した罪は、それを償ふためには凡ゆる身についたものを充てゝも尚果し得ず、遂に追放されるが、かくして出雲で劔を得られ、これを天に奉ることによつて贖罪が済むのであり、これらのことを考へると、素鳴尊は非常に単純化されて、寧ろ滑稽に考へられるのは、神道には罪障観念が少かつたためである。
 神道は多くの宗教要素をもつてゐたが、過去に於て健全な行き方をしてゐなかつたことが、かゝる欠陥の原因であった。我々は陣痛の苦しみを共に分たねばならぬ。苦しみなくしては健全な発展はない。宗教としては先輩である仏教や、友教である宗派神道の中から信仰の情熱を学び、又内省して自分を省みて見なくてはならない。今はもと我々が考へても見なかつた時代に来てゐる。こゝに人類教としての行くべき途を発見した。かへす/˝\も言ひたいことは、我々は、真の宗教に進むべき道にある多くの障得・苦痛は今、取り除けられたのであるから、 かゝる点に思ひを致して進まねばならない。

(昭和二十二年二月二日、神社本庁創立満一周年記念講演会筆記。
同十日「神社新報」第三十二号)

底本:折口信夫全集 20(1996年10月10日初版発行、中央公論社)

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