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大学の学祭ってなんであるんだろうね

毎朝、目が覚めると「また、今日もやってしまった」と思いながら乾燥して目に張り付いたコンタクトを剥がす。
外した後の目は,涙が少し沁みる。ちゃんと外さなきゃいけないことはわかっている。けれども、僕は毎日外すのを忘れて眠りについてしまうのである。

今日は大学の学園祭の最終日。
初日は大好きなバンドが来ていたので、ライブに行ってちょっと大学生っぽいエモさを感じていた。
ただ僕はサークルに行っていないから、する事もないのでそれ以降に大学には行くことはない。
僕の大学は渋谷と表参道の間という立地に在り、とても恵まれているが、同時に🎃とかでは混み合ってしまって帰る時に立たないと電車に乗れないデバフがある。

大学生とは暇なもので、することがなければ高校生と似たような日々を送り続けるのである。むしろ高校生の方が人間として生きているみたいである。
僕たちは,人と関わり合ってこそ社会性を持った自分を生存させることができる。

人と関わらなくてはいけなかった高校までの時間はとても大切で、ありきたりな言葉で言うと、かけがえのないものだったのだと感じる。
(高校最後の文化祭はコロナというイベントによって、その役割を奪われてしまったのだが…)

つまり何が言いたいのかというと、
高校までの学園祭はクラスというものがあったせい(おかげ)で、僕らは少なからず誰かと必ず関わるもので、恥ずかしがりながらも参加することができた。
しかし,大学というものは非情で、学生がうるさいからしょうがなく学園祭という時期を設けて、風紀を乱さなければ好きにやって良いよ、と明け渡しているだけな気がするのである。むしろそうであるからこそ、大学なのであろうが。
(大学が生徒に干渉しすぎたらそれはそれで自主性を育む邪魔をしてしまう気もするのである…)

与えてくれない教育機関、反抗する教員に出会えない場所。
大人という存在に反抗して生きていた僕にとって、「もう君は大人なんだ」と。
そんなふうに言い渡されたような気がするのである。
もう大人になってしまったんだなと感じるのは、なんでだろう。

インスタを見れば友人たちは皆、キラキラした大学生活を送っている。
天皇賞秋で、パンサラッサが意地を見せたことを悔しがりながら、池袋で将棋を指すおじさんを横目に、僕は今日という時間を過ごしている。