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朝は親切だ

翌日7時半前に起きる。ぼんやりしながら、やっぱり鹿じゃないか、私がいきたいのは奈良なんじゃないかと思う。
家から持ってきていたカフェインレスコーヒーのドリップパック一袋を取り出す。
昨日ファミマで買ったミネラルウォーターを、部屋に置いてあるケトルに入れる。昨日のままにしてあるシードルの入ったままのコップと瓶を据え置きつつ、冷蔵庫に入れていた味付け卵を取り出し、ひとつずつ食べる。黄身まで染みていると書いてあったが、確かにそうかもしれない。しょっぱさが寝起きの体に染みる。

部屋には2箇所に窓があり、紺色のサテンのカーテンが付いている。カーテンを引く時のジャらジャらした音を遠慮がちに響かせて、通りに面した道路沿いの窓を覗く。建物はどれもまだ目が覚めていないような姿だったが、風も朝陽もその隙間を逃げるようにサラサラと光って巡っている。もうひとつの窓を覗くと、隣の建物のコンクリートが眼前にミチミチに広がった。朝陽が脳を目覚めさせる予感がしたが、通りに面した窓からは私が外の景色を鮮明に見たのと同じくらい部屋の中も見えるだろうと思い、カーテンを閉じた。
決断できない私はウダウダと考えをこねる。
8時30分くらいにチェックアウトすれば、朝の奈良公園で人がたくさん来る前の静かなひと時を過ごせるだろう、でもゆっくりしたいしなんならもう少し寝たい気もする。そもそも荷物を持って公園を歩き回るのもなあ。奈良駅にロッカーはあるんだろうか。近くにあったホテルの規約の合皮のバインダをひっぱり出し、数ページめくる。チェックアウトは10時までらしい。
昨日食べなかったカップラーメンどうしよう。あんまりお腹が空いていない。でも持ち歩くのも邪魔くさい。なら食べるしかないけど、そうするとチェックアウトが先延ばしになる。このシードルも半分も残っていて勿体無い。飲みたくないなら飲まなければいい気もするけど、200円以上したのに半分も捨てるなんて。誰か飲んでくれないものか。
そういった悩みになる前の悩みみたいな考え事をしていたら、だんだん面倒になってきて、ベッドにもう一度寝転ぶ。
もう8時だから、人のいない公園を楽しむなら動き出さないと、と思うけれどスマホを持ち、一瞬でTwitterのタイムラインに目を滑らせる。この間の大きな地震のあと、NHK盛岡のアナウンサーが大急ぎで駆けつけて地震の速報ニュースを読んでいた姿が話題になっていた。シャツの襟が内側に入り込んで、髪の毛にも雪がついたまま、それでも冷静に視聴者を気遣う姿に称賛の声、とのこと。多くの人の目にさらされ、取り上げられ、いろいろな言葉をかけられようともそれを意識したりせずにそのままでいておくれという身勝手な感想を持ち、またスイスイとタイムラインを滑る。鶴見俊輔さんの「わたしが外人だったころ」という絵本が無料公開されていた。リンクを開いて読む。絵とテキストの距離が近くて遠く、印象に残る。最近読んだ「お嬢さん放浪記」を思い出す。戦争をする国に所属している個人同士の関係、個人それぞれが持つ戦争の記憶とイメージ、考え続けることができなくてまたスイと指を滑らす。コンクリート打ちっぱなしの壁の、洗練された部屋の写真を見て、私もこういうところに居たいと思う。部屋の投稿にいいねを押したり、パウンドケーキを切り分ける猫の絵にいいねを押したりしていたら二度寝した。

次に起きると9時。ちょうどよい時間二度寝をした。カーテンを閉めていてもさっきより部屋が明るくなったのがわかる。朝の光は白い。
チェックアウトまであと1時間と、迷う余地がなくなると、さっさと動けるのが不思議だ。
カップラーメンは持ち歩きたくないので食べる。残りのミネラルウォーターをケトルに流し入れ、もう一度湯を沸かす。その間に顔を洗いトラベルキットの残りの化粧水やらクリームやらを使い切る。首元にも、足にも、腕にも塗る。
沸いた湯を注ぎ3分。その間に服を着替える。昨日と同じ服を着るが、相変わらず袖が邪魔だ。スキニーにヒートテック姿でラーメンを食べ始める。細麺の豚骨ラーメンはたまに食べたくなる。朝なのでカップ麺を食べても罪悪感はない。洗面台に捨てづらいので、汁まで飲み干す。紅しょうががほんのりと、しかし確実に存在感を放つ豚骨ラーメンが好きだ。
食べ終わったら化粧をする。10分ほどかける。袖がボワっとした昨日と同じ白のニットを着る。歯磨き粉の食感にするために無駄にどろどろもさせたのではないかと疑ってしまう微妙な歯触りの歯磨き粉で歯を磨く。布団の四隅を整える。自分の家ではやらないのにね、という言葉が自分から聞こえる。荷物をぎゅっと詰め込む。1番下にウルトラライトダウン。下着。昨日買った本。財布。
机の上に残されたシードルの瓶、捨てるつもりで手を伸ばしたが、やはりもったいない。
そのままぐいっと一気飲みする。朝なのにお酒を飲んでしまったな、と思う。部屋用のホテルのスリッパからスニーカーに履き替える。準備が完了するともう10時。
フロントの前のキーボックスにカードキーをペしりと落とすともうホテルとはおさらばだ。
フロントマンは電話対応をしているし、誰にも見送ってもらえないで自動ドアが開く。挨拶もしないまま一晩身を置いた場所を出て行くのは不思議な感じがする。

朝のファミマは昨日の夜見えた姿と違う。あっけらかんとしている。
私も昨日の夜みたいに、何か切迫してものを買いたいという気持ちもない。何も欲しくない。
店の外のテラスのような席で酒盛りをしている人たちを見る。机の上に、ハイボールの缶が人数分。ダウンジャケットを着て、タバコをふかす人、静かに笑う人。
白い光の中で見た光景に、朝は親切だと思った。
どうしても期待してしまうような、優しい人になれたような、与えられている感覚がある。
朝の少しだけ冷たさの残った風を受けて髪の毛が擦れる音がする。
私は駅に向かう。




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