明石狩り

 伏見桃山にある仙台伊達屋敷に密かな噂がたったのは慶長二十年六月の頃からで、時期的に言えば大坂の陣が終わって間もない。その噂というのが、
 ―― 夜な夜な男の霊が出る。
 というもので、その姿を見た者は一人や二人というようなものではなかった。しかも見た者が口をそろえいうには、その男の霊というのは、骨相異様というべきもので、仁王のような団栗眼の上に百足のような太い眉が二つあり、しかも総髪は白黒が入り混じり、鷲鼻の下に裂けたような大きな口があるのだという。屋敷内の者は、
「殿に恨みを持つものか」
「だとすれば、神保出羽守ではないか」
「その前に、蘆名か」
「秀次様がお恨みしているのやもしれぬぞ」
 などと、珍説の類といえるものまで口の端に上る有様であった。主の伊達政宗は、
「世迷言にすぎぬ」
 と断じた。
「だが、見ている者が一人や二人であれば世迷言として切り捨てることもできようが、屋敷内にいる大凡の者は少なくとも一度は見ている、という。これで世迷言、とはちと云えぬのではないか」
 政宗の再従兄弟であり政宗を支え続けてきた股肱の臣である伊達成実はそう反論した。
「故に世迷言と申しているのだ」
「どう言う意味だ。その男の霊というのはおらぬ、と言いたいわけか」
「そうではない。皆が見ているのは霊ではない」
 政宗がそういうのへ、成実は要領を得ぬ表情をしている。
「つまりだ、その皆が見たという男は、悪霊などというたぐいのものではないという事だ」
「それでは、殿は誰かをかくまっている、という」
 成実は声を潜めて言うのへ、政宗は頷いて返事をかえした。
「では、誰をかくまっているのだ」
「明石掃部」
 成実は信じられぬ、といった表情で政宗を見た。政宗が風流の人であっても、そのような稚拙な嘘はつかぬ男であるのは成実自身がよくわかっている。それだけに、政宗の言葉を受け止めることができない。それほど重大な告白であった。
「嘘だと思うておるな」
 政宗は眼帯の下にある口元をにやり、と浮かべた。
「俄に信じられると思うか。相手は、豊臣方の大将の一人で熱心な切支丹でござろう。大御所様が目の敵にしておる武将ではないか。もし殿の申される通りであれば、殿御自ら面倒事を抱え込んだという事になり申す。大御所様に喧嘩を売るおつもりか」
 といいながらも、この武辺大将はどこか嬉しそうに言っている。
「それはもうとうに捨てておる。大御所様と戦を起こすつもりはない。が、といって頼りに来た者をむざむざと見殺しにも出来ぬであろう」
「殿は、いつから切支丹になられた」
 成実はそう言って詰め寄ったが、その表情は困っている政宗をからかっているようであった。政宗は涼し気な色の小袖の胸元をくつろげさせて中の蒸れた空気を通してやると、
「滅多な事を申すな。あくまで頼って来た者がたまたま切支丹であったという事だ」
「では、掃部殿を大御所様に引き渡すのか」
「いや」
 政宗は思い出した様に煙管を取り出し煙草を詰め始めた。そして火を入れてゆっくりとたばこをくゆらせると、
「このまま匿うのも面白いと思うておる。あれほどの武将を朽ちさせてしまうのは惜しい気がするのだが、どうだ」
「やはり、殿は大御所様に戦仕るおつもりらしい。……だが、それも一興じゃ。ならば、どうする」
 ふむ、と政宗、しばらくとっぷりと考え込んで、
「とりあえず、仙台に行っていただくつもりだ。その後は、その時に考えればよかろう」
「という事は、行列の中に潜り込ませるのか」
「いや、別にする。噂に上っているのであれば、ここは下手に動くのは上策ではない。噂が消えるまで待つのがよいが、といってこのまま掃部殿が居れば噂は消えまい。ここは、先に向かってもらうのがよいと思うがな。それも、大仰になってはならぬ」
「では、一人か二人か。いずれにせよ、供の者を決めねばならぬが、誰がよいか」
 と成実が言って、ふたりは唸りながら考え込んたが、どの家臣も一長一短あってこれ、というものが出てこない。その時である。
「大御所様の御使者がまいられました」
 という家臣の注進を受けた政宗は、
「通せ。すぐに参る」
 といって立ち上がると、すぐに向かった。

 大御所、徳川家康の使者は口上を申し述べた後、
「大御所様は、『伊達殿には大坂の戦での骨折り、誠にいたみいる。それについて、細やかな宴などを催して、疲れを癒されていただきたい』と、こう仰せでござりました。つきましてま伏見にお出まし願いたく、参った次第でござりまする」
 といった。政宗も
「よろしい。大御所様直々とあらばこの政宗、喜んで伏見に参ろう。それで、いつ」
 と答えた。
「今宵でござる」
「それは急であるな。明晩ではないのか」
「いえ、今宵伏見に参られるように、との事でござりまする」
 政宗は考える間もなく、
「わかった。今宵とは言わず、すぐに参上いたそう。……支度がある故、貴殿はその旨、大御所様にお伝え願えまいか」
 といった。政宗の決断はいつも早い。使者は不意を突かれたように聊か戸惑ったが、
「ではすぐに伏見に戻りて、大御所様にこの事をお伝えいたしまする」
 といって屋敷を辞去した。政宗はあわてて成実の待つ部屋に戻ると、
「困った事になった」
「どうされた。大御所様から叱り置かれたか」
「そうではない。伏見で、宴を催すのだそうだ、それに呼ばれた」
 政宗は家康の真意を見抜いたようで、苦り切った顔を見せた。成実もその様子を見て家康の目的は何かすぐに察したが、
「行くより他有りますまい。行かれるのだな」
「そうするしかあるまい。……成実、おぬしは伏見の家臣をよく知っておる。これは、と思う者あらばおぬしが決めよ」
「承知仕った」
 成実はそういって拝命した。
 政宗は日が落ち切らぬうちに小姓数人を連れて家康がいる伏見の城に入ると、案内役によって伏見の庭を一望できる部屋に向かった。一段高い上段に家康が座っていて、他には誰もおらず、宴は二人のようである。
「伊達政宗殿お連れいたしました」
 家康は、政宗を一瞥すると、
「よう来られた。ささ、こちらに」
 といって自ら立ち上がて政宗を正面に座らせようと出迎えた。その姿を政宗はみて、
(これほど衰えるものか)
 と往年の姿を知っているだけに、無情に思った。
 家康にとってこの大坂の陣というのは人生の集大成と言ってよいものであった。自らが作り上げた幕府を盤石なものとし、再び戦乱の時代に戻さぬための最後の仕事であり、家康はこれに決着をつけるために生に固執していた。そしてその戦が終わった為、家康は目に見えて疲れ果てていた。
(それだけではない)
 と家康の表情を見た政宗はそう考えている。
 家康にとって秀頼は千姫の婿で義理の孫である、という事以上に秀頼の将来性を高く買っていた。
 今から五年前、京二条城で家康は秀頼と対面した。痩身小躯の秀吉とは全く違い、秀頼は大柄で体格もよく、他を圧倒するほどの英雄的資質を持っていた。家康はこれに恐れて、秀頼を倒そうとした、とされる。
(だがそれは間違いだ)
 間近で見てきた政宗はそう考える。家康が憎んだのは秀頼ではなく、秀頼の母である淀の方であり、それの無能な取り巻きに対してであって、秀頼ではない。むしろ秀頼には好意的な感情を持っていて、千姫の願いを聞き届ける形で、秀頼救出に最後の最後まで力を注いだのである。その一点を見ても、家康は秀頼を傍に置き、徳川将軍家の保護に置くつもりで存続させるつもりだったであろう。
 だが、それを無駄にしたのは結局淀の方で、豊臣家はこの女一人の為に滅ぼされたようなものである。孫娘の願いを達せられなかった事もさることながら、将来ある若者を目の前にして、むざむざと死なせてしまった事への無力さとが、家康を一気に老けさせたのであろう。
「お招きいただき有難く存じまする。また、先の戦での御戦勝、おめでとう存じまする」
 政宗はそういって会釈をすると、家康は満足げに老いさらばえた顔に懸命の喜色を作った。
「先の戦ではとんだ骨折りをしていただき、忝く存ずる。他の大名も呼ぶつもりであったのだがな、皆がそれぞれすでに帰途に発った後でな、いるのが伊達殿、おことだけであったそうな」
「それは他の大名が聞けばさぞ、口惜しゅうしましたでしょうな」
「そうであってくれるとよいがな。……誰ぞおらぬか」
 家康の求めに家臣が進み出ると、
「酒をこれへもて」
 と命じた。暫くして酒が運ばれてくると、家康は自ら上段から下り、政宗と膝が当たるほどの近さで酒を酌み交わした。そして、
「今でも考えるのだ」
 と切り出した。
「何を、でござりましょう」
「秀頼が事じゃ。なんぞ手立てがなかったのか、とな」
 家康は畳に触れそうなほどの落ちた声でそういった。
「されど、あの時はすでに助けるのは叶わぬ事であったと、思いまするが」
「先のある秀頼を救う事が出来ておれば、姫を泣かすことも無かったであろうにな。姫が不憫でならぬわい」
 という家康の姿は孫を案じる爺そのもので、政宗は
(大御所にも弁慶の泣き所というやつか)
 と幾分の可笑しみを感じた。
「大御所様。さはさりながら、戦も終り、天下の火種は遂に消え申した。これからは千姫様のような女子は出ることはありますまい」
「そこじゃ、伊達殿よ」
 家康は顔を上げた。
「確かに、豊臣の戦は終わった。これで、天下も静まろうとは思う。だが」
 と一旦呼吸を置いて、
「これですべてが終わったわけではない」
 と断じる顔は、天下を獲った老練な政治家に変わっている。政宗は、
(きたか)
 と思ったが、それをおくびにも出すことはない。
「と、仰いますと」
「大坂方の大将はあらかた討ち取ったが、まだ残っている者がおる」
 政宗は聞きながら、自ら酒を注いでいる。
「明石掃部だ。この者の首だけは見ておらぬ」
「掃部殿が、生き延びている、と」
「分からぬ。どこかで野垂れておるか、あるいは」
「あるいは?」
「誰かに匿われているか。いずれにせよ、掃部の首を見ぬ事には、おちおち冥土に行くことすら出来ぬ」
 家康も自ら空になった杯に酒を注ぎ、それを煽って飲み干した。
「ついては、明石掃部が事、諸大名に触れを出すつもりだ」
「触れ」
「左様。掃部の首をこの家康に見せるようにな」
 家康は往時の胆力を取り戻した様に凄味を増大させている。政宗は少し不思議に思う。
「大御所様、一つ思う所がありまする」
「何なりと申されよ」
「明石掃部殿は、確かに先の戦で大いに戦った者。されど、どこかの大名家の子息でもなければ、領地を持たぬ一介の牢人でござる。わざわざ大御所様の御手を煩わせるような者とは思えませぬが」
「単なる牢人であれば、そこまで申すまい。どこで何をしようが、最早何もならぬ男よ、されど、奴は耶蘇の者だ」
「耶蘇が、悪うござりまするか」
 悪い、と家康は言い切った。
「耶蘇の教えは禁教である。それだけではない、奴のような剽悍者に耶蘇の教徒が一軍をなせば、各地の切支丹が呼応するとも限らぬ。それを危ぶんでおるのだ」
 という家康の言葉は、後の島原の戦の事を予言したわけではない。だが、その危惧を家康は持っていたのである。
「されど、天下がここまで平らになった以上、いかな耶蘇とて徒に乱を起こすというのは考えにくうござる。ましてや一介の牢人がそこまでの力を持つとも思えせぬが」
「確かに、伊達殿の申されること尤もである。だが、禍根は断つに限る。たとえそれが萌芽であったとしても、摘み取らねばならぬ」
 家康の覚悟は断固たるものであった。政宗は、
(天下人をここまでさせる明石掃部め)
 と家康よりもむしろ掃部に対して舌を巻いた。家康はところで、と話題を変え
「伊達殿の屋敷に夜な夜な物の怪が出るそうな」
「いやいや、物の怪などは口の端に上る下らぬ事。大御所様の御心を煩わせるほどの事ではござりませぬ」
「もし、祓いを受けるのであれば、良き祈祷の者をそちらに向かわせるがどうじゃ」
 政宗は破顔して笑いながら手を振って、
「まことに戯言でござりますれば、大御所様も真に受けられては困りまする。まあ、人の噂も七十五日と申しまする。すぐにでも消えてなくなりましょう」
 といった。家康もこれ以上食い下がるわけにもいかず、
「それならばよいがな。何かあれば、この家康に頼まれよ」
 といって初めてはじけるように笑った。

 宴が終わった時、大きな三日月が政宗を見つめていた。
「前立によう似ておる」
 政宗は少しうれしそうに言った。馬上の壮年は少しほろ酔いの加減で、馬もそれに合わせて悠然と歩いている。不意に気配がしたので、馬を止めた。
「どうなされました」
 小姓が政宗を守るようにして囲うと、政宗は目を指さした。犬が横切っていたのである。小姓は安堵して囲みを解いたが、政宗はまだ動かない。小姓が不思議に思っていると、
「そこの者。大御所様によろしく伝えておいてくれ」
 と出し抜けに叫んだ。そして、
「戻るぞ」
 といってまた悠然と伏見屋敷に戻った。
 伏見屋敷はすでに寝ていたが、一部屋だけ常夜灯のように明かりが点いていた。政宗は、
「成実か」
 と見越していると、やはり成実であった。
「殿、大御所様とはどうでござった」
「戸をすべて閉めよ」
 政宗の様子を見て心得た成実はすぐにすべての戸を閉めると、再び座りなおした。政宗は成実の目の前に座り、互いの耳を口元に当てるほどの近さに接近させると、
「大御所は、疑っておる」
「何。もしや露顕したか」
「いや、そこまでは分からぬが、疑っているのは間違いない。すぐに出立させたいが、そうもいかぬ。恐らく伊賀者がこちらを見張っているであろう」
「迂闊に動けぬな」
 政宗は少し思案をして、
「明日の午の刻に掃部殿を出す」
「して、どうやって」
「掃部殿には少し我慢をしていただくことになる。……して、成実のほうはどうだ」
「一人、配下に手頃なものがある」
「その者はどこにおる」
 控えさせておりまする、と次の間のふすまを開けた。
 鼠のような敏捷さに服を着せたようなやや線が細い青年が平伏している。政宗は一目で見て、
「黒巾脛組か」
 と見抜いた。成実はそれに頷き、
「神崎与之助と申す者でな、人取橋の折にもこの与之助には助けてもらった。この度も良い働きをしてくれると思うが如何」
「成実が申すほどのものであるのならば、不足はあるまい。……与之助、面を上げい」
 与之助が面を上げた。忍びとしてはすでに盛りを過ぎた壮年の域を越しかけている。成実は、政宗の危惧を心得ていて、
「たしかに少々歳が行き過ぎているが、忍びの腕は衰えておらぬ。それに、他に適した者もおらぬ。この与之助がよいと思う」
「相分かった。……与之助、そちにはこれからある者を仙台まで連れて行ってもらいたいのだ。成実、呼んできてはくれぬか」
 成実は立ち上がって掃部のいる隠し部屋に向かい、暫くして掃部を伴って戻ってきた。
「連れて行ってもらいたいのはこの者だ。名は、承安。……そう、承安という」
「坊様でござりまするか」
 与之助が尋ねる。
「そうだ。この承安殿は政宗と懇意にしておってな、仙台に迎え入れるのだが、どうにも共に参らぬ、とこう仰せでな、とはいえここで無情に分かれるというわけにもいかぬ。そこで、おぬしに承安殿の身辺を護ってもらいたいのだが、どうだ」
「畏まって候」
「明日午の刻に出立せよ。それまでは体を休め」
 政宗はそう言って与之助を退き下がらせて、承安こと明石掃部には、
「明石殿。出来る限りここで匿うつもりでござったが、大御所家康殿が疑っておられる。ついては、仙台に向かっていただきたい。表立って我らも明石殿を助けるわけにはまいらぬ故、あの神崎与之助を護衛として明石殿にお貸しいたす。我らとは別儀にて向かわれよ」
 と言った。掃部は晴れやかな顔をして、
「これほどまでの御厚意を賜った上に、このように助けていただけるとはこの掃部、伊達様には終生の恩義と心得まする。戦場においては敵味方でござったが、それも過ぎた事。それがしも夢破れた以上、大人しゅうするつもりでござる」
 といった。政宗は満足げに頷くと、
「それでよい。明日の出立故、休まれよ」
 と掃部を隠し部屋に帰した。
「殿、一つ分からぬことがあり申す」
「なんだ」
「殿は何故、そこまで掃部殿をお匿い遊ばす。確かに頼ってきたというのも一つあるやもしれませぬが、それだけではござりますまい」
 政宗は成実に、
「意趣返しよ」
 といった。
「意趣返し?」
「そうだ。大御所様はな、関ヶ原の折、勝利の暁には旧領を還す約定を取り付けていた」
「それは知っておるぞ。お墨付きを貰うた」
「だが、それを反故にされた」
「されど、それは和賀殿をたきつけた殿が悪い。その事は、殿も十分に分かっておられるはず」
 成実が真面目に反論しようとするのへ、政宗は大きく笑った。
「そのような事は分かっておる。これは、徳川殿とこの政宗の戯れよ」

 翌日の午の刻に、承安こと明石掃部と神崎与之助はそれぞれ雲水の風体に身を変え、伏見の伊達屋敷を出た。一方、政宗ら一行も仙台に向かうべく留守居役を残して同じように屋敷を出立した。伊達者と称されるほど豪華華美な大名行列によって人目を引き、其れに紛れて二人は伏見から消えた。
 政宗の行列は伏見から京に入って三条、さらに東海道を東に進んでいくのに対して、掃部らは伏見からそのまま北に上がって、さらに琵琶湖を西に沿って北上していく。
 政宗は黒巾脛組からの報せを逐一受けながら、
(さて、どちらが勝つか)
 と双六を観戦するようにして楽しんでいる。
 一方の伏見に残っている家康は、昨夜の政宗の様子を鑑みるに、
「やはり、明石掃部は伊達の所におったな」
 と考えた。そしてそれを側近である本多佐渡守、その嫡男の本多上野介にそれを話すと、佐渡守は
「ならば、昨夜のうちに伊達殿を放免なさったのは失敗でござりましたな」
 といった。上野介も同様に頷いている。
「別にしくじったわけではない。それに、確固たる証もなければ、それで伊達を引き留めて詰問するわけにはいかぬであろう」
「ならば、いかがなさりまする。このまま指をくわえて見ておられるつもりか」
「そのような事はありゃせんよ。掃部が事は諸大名に触れを出せ。生死を問わず、明石掃部を見つけ次第引き渡すようにな」
 家康は上野介に命じると、上野介はすぐにとりかかった。
「それにしても」
 と家康は疑問に思う。もし、政宗が掃部をかくまっているとすれば、その訳は何か。かつて太閤秀吉の時代には葛西大崎での一揆扇動の疑惑があったり、関ヶ原の戦でも一揆を後押しするような素振りを見せたのは、やはりあくまで天下を狙う野望があったのは明らかで、この時期の政宗は言うなれば遅れてきた英雄であったといえる。
 だが関ヶ原の戦が終わり、天下は徳川の下に統べられる事を分かるや、政宗はいち早く臣従を示したのもまた事実で、あれほど狙っていた天下をきっぱりと諦めたのは家康の目から見て間違いなかった。
「だが、それは間違いですな」
 と本多佐渡は言う。佐渡からしてみれば、政宗はかつての真田安房守とおなじ表裏定やかならぬ男で、今となっては希少となった戦国気風の男である。いくら面で従うふりをしても、腹の中までは読めぬわけで、これまでの経緯も考えると、第一級の要注意人物として挙げるべきである、と。
「佐渡はそう考えるか」
「左様で。伊達者は何をしでかすか分かりませぬ」
 佐渡のいう、伊達者、という言葉に家康は膝を打った。
「それよ、それ」
「何がそれでござりましょう」
「つまりは、政宗は遊びよ。この家康が掃部の首を獲るか、政宗が掃部を逃がしおおせるか」
 家康はそういうと新しい遊戯を見つけた子供のように笑った。
「ならばこの遊び、受けて立つか」
 佐渡はようやくその意味が分かった。

 神崎与之助と明石掃部はそういう裏事情があった事を無論知る由はない。二人はただ身を隠し、監視の目を潜り抜け乍ら仙台に向かうだけである。西近江路から越前の方に向かい、そこから小荒路を東に向かい、賤ヶ岳を越えて北陸道に出る。
 越前福井は松平越前守忠直という人物が治めている。この忠直は掃部との因縁浅からぬ人物で、先だっての夏の戦では、天王寺・岡山の決戦で真田幸村と戦って安居天神にて討ち取った西尾仁左衛門の主君である。そして、掃部とも一戦交えたことがある。
 その忠直の領地に入った二人は、板取宿に入った。
 板取宿は北国街道の入り口に当たるところで、今よりほんの少し前、天正期には織田信長の安土城と、越前北ノ庄を結ぶための街道として切り開いて整備したもので、先ほど通った賤ヶ岳も北国街道に近い。板取宿は北陸と近江、そして畿内に通じる交通の要衝となっていた。
 板取宿の町の規模に反して人の数が多く、番所の規模も大きいのはその為で、二人はこのために身をひそめる場所を選ばねばならない。
(さて、どこがよいか)
 与之助は板取宿にある七件の旅籠をくまなく探ってみると、どれもが客が入りきっており、中には廊下にまで人が這い出るほどの有様でとても泊まれるものではなかった。
「野宿しかあるまい」
 人目をはばかって町から少し外れたところで休んでいる掃部は、与之助の報せを受けてそういった。
「しかしながら、殿に所縁のある方を野宿させたとあれば、それがしが叱り置かれぬとも限りませぬ」
「野宿なら慣れておるし、伊達殿も分かってくれよう」
「そういうわけにはいきませぬ。幸い、ここは町の者が多ござる。どこか頼み込めば、雨露をしのぐ場所は貸してもらえるやもしれませぬ」
 すでに夜が更け始めている。さらに、分厚い雲が湿気を呼んで、暫くもせぬうちにしとしとと降り始めた。そうなるととても野宿というわけにはいかない。
「どこかの宿で馬小屋でもよい、使わせてもらうしかないな」
 掃部は苦り切った表情でつぶやいた。与之助がもう一度旅籠に向かおうとした時である。
 ―― 誰だ。
 という叫び声が聞こえた。明らかに二人に向かっている。与之助が声の方向に目をやると、百姓姿の男が一人こちらに向かっている。
「見かけない顔だな。……なるほど、旅の坊主か」
 与之助はそうだ、といい、更に宿を探している、と告げた。男は、
「どこの旅籠も詰まっているのかね」
「見に行ったが、どこも人でごった返していた」
「だったら、家に来ればええ」
 男はあっけらかんと言った。
「よろしいのか」
「よろしいも何も、坊主に施しをしておけばいい事がある、というではないか。それに、この雨ならば夜明けまで長引くかもしれん。そうなれば、とても野宿なんぞできぬぞ」
 男の言う事も一々尤もである。すると掃部が、
「それならば、一宿の恩義に預かりたく思う。まことにかたじけない」
 といって、与之助を差し置いて決めてしまったのである。そうなると与之助も従うしかなく、
「ならば、泊めていただけまいか」
 と言った。男はええよ、といってついてくるように二人に言った。
 男の家は二人がいた場所からすぐであった。一人で住むのに適した小さな小屋ほどで、中に入ると土間と囲炉裏のある他は二間ほどしかない。男は、
「布団などの気の利いたものはないが、雨露をしのぐくらいにはなりましょう」
 といった。与之助が表戸を閉めてほどなく、雨脚が強まって遂に雷鳴が耳をつんざいた。
「あのまま外におってはどうなっておったか」
 男は肩をすくめた。
「腹も減っていようから、飯の支度の間に向こうでくつろいでくだされ」
 男のいうまま、二人は錫杖を土間の壁に傾け、草鞋を解いてそのままあがると空いている部屋にはいって旅装を解いた。暫くして飯の支度が出来たようで、男が声を掛けると、囲炉裏にくべてある鉄の鍋から湯気が立っていた。
「さあさ、座って下され」
 男は二人を座らせると椀を取り出して二人の分をよそって渡す。掃部も与之助も真っ当な飯は暫く食べておらず、腹が大きく鳴った。
「これだけだが、遠慮せずに食べてくだされ」
「では、いただく」
 二人は腹に言い聞かせるようにゆっくりと食べた。そして飯を終えた掃部は疲れがどっと出たようで隣の部屋に向かってすぐに寝息を立てた。与之助は囲炉裏にくべてある火に向かって短く折った枝を投げて絶やさぬようにしている。
「承安殿は疲れがよほど溜っていると見える。なあ」
 与之助、と男は出し抜けに与之助の名を呼んだ。与之助は隠し持っている匕首を構えた。
「儂じゃ、気づかんのか与之助」
 男は顔を迫らせて何度も指さした。あっ、と驚く与之助。男は含み笑いをした。
「孫兵衛か、孫兵衛なのか」
 この百姓家の男も、同じ黒巾脛組の奥村孫兵衛という者で、与之助とは顔なじみであった。
「そうじゃ。政宗様の命を受けて、おぬしの跡をつけておったのよ。ここは一時借り受けたところでな、当の本人の許しを得ている。それにしても、まっすぐ東海道を目指せばよいものをわざわざこんな大回りをすることもなかろうに」
「どういうわけか、承安殿が選ばれたのだ。そこについてはよくわからん」
 与之助がそういうのへ、孫兵衛は思い出した様に、
「伊賀者が忍んでいるぞ。おぬしらがおった板取の所に数人な」
「何。それは、どういうわけだ」
「それはよくわからんが、承安殿が事ではないのか。殿のあの様子といい、あの承安殿には何かあるのではないか」
 言われて与之助は掃部のいる部屋を見つめた。閉まってある部屋の戸は動かない。
「孫兵衛は何か存じておるのか」
「いや、何も。……ただ」
「ただ。なんじゃ」
「殿が大御所の所に向かわれてから、俄に慌ただしくなったであろう。出立の支度も大御所の屋敷から戻ってからの事であった故、何かあったやもしれぬ。それに、おぬしとあの承安殿の事については、我らが総出にて取り掛かられるように、とも仰せられた」
「総出??それは大層な事ではないか。それほどにあの承安という坊主が大事なのか」
 与之助は何とも不思議な顔つきで見つめている。
「それは分からぬ。だが、この事は殿の厳命である、という事は心得ておけ。それから、しばらく休んで後雨の上がらぬうちにここを出ろ。このまま北に上がるのは人目について危うい。ここから南に引き返して三国岳を抜けて山伝いに行ったほうがよいだろう。東海道を避けるとなると中山道になるから、途中で中山道に入ってそのまま進め。そこに幾人か人を配置してある」
 与之助は神妙に頷くと、暫くの仮眠を取った。耳には雨が屋根を叩く音が響いていた。

 一刻ばかり仮眠を取って、聊か体力を戻した二人が孫兵衛の百姓家を出る時はまだ、雨が続いていた。孫兵衛は食糧を渡し、二人は網代笠に蓑合羽をまとって、雨の中を足早に進んでいく。この先を掃部はこのまま北陸道を抜けて日本海に進む、というと、
「それは拙い」
 と与之助が異議を挟んだ。
「何故でござる」
「貴殿は、どういうわけか伊賀者に狙われているらしい。なぜそうなっているかは分からぬが、このまま海に出るとなれば人も多く、検めも多かろう。それよりはこちらの」
 と東の方角を指さした。連綿と山脈が続いている。
「こちらの山の中を抜けたほうが見つかり難く思いまするが」
 掃部はなるほど、と頷き
「ならばそうしよう」
 と、掃部が言うと、与之助は掃部を見つめている。何やら言いたげである。
「どうされた」
「どうにも合点がいかぬのです。昨日借りた宿のあるじは黒巾脛組の奥村孫兵衛と申す者で、その者が申すには、黒巾脛組が総出でもって我らを助けてくれるという。いや、そもそも何故承安殿が、伊賀者に狙われているのか。それも判然とせぬ。そのくせ、殿と貴殿は所縁があるという。……承安殿、貴殿は何者であるか」
「明石掃部頭全登である」
 と掃部が打ち明けられるはずもない。掃部は目まぐるしく頭を回転させて、
「伊賀者につけられる訳がないわけではない」
 と答えた。
「どういう事でござろう」
「徳川には浅からぬ因縁があってな、伊達殿ともそれが縁となって助けてもらったのだ」
 左様でござりましたか、と与之助は言ってはみせるがその実、それを受け入れるほど素直に受け入れるわけがない。とはいえ、内密と雖も政宗の命を受けている以上、それ以上の詮索は分に過ぎることもよくわかっている。だから与之助はそれ以上何も言わず、
「分かり申した」
 とだけ言って、すぐに話を戻した。
「山を抜けるとなれば、南の三国岳を越えれば美濃に入りまする。美濃に入れば中山道につながり、中山道は駿河を通りませぬ」
 という事は、家康の本拠地を躱すことができる。今頃家康は駿河に向かって出立をしている頃であろうから、そこで鉢合わせをするのはよろしくない。
「ならば、中山道を通って参るのだな」
「中山道を行けば、我らの仲間がまた待っておりまする。そこまで行きまする」
 与之助はそう言って掃部を連れて三国岳に入った。抜ける、といっても山頂を通るわけではなく、北側の尾根伝いに徳山湖まで出、そこからさらに揖斐川に沿いながら南に下って美江寺の宿に入った。
 美江寺宿に入った。この頃の美江寺は多少の問屋場があるだけの小さな農村に過ぎず、これが中山道の宿場に変わるのは後の事である。
 とはいえ、すでに帳が下りている中で次の宿場に行くわけにもいかず、与之助は一軒の家に頼み込んで一宿を得た。
「中山道に入れば少しは楽になるな」
 掃部は宛がわれた部屋で漸く生気を取り戻した。いかに戦場を縦横無尽に駆けたこの男でも、峻険な山越えは応えたらしい。与之助も奥羽で鍛えた足腰を使い切って乗り越えたほどである。
「今夜はここでゆっくり体を休め、明日に備えましょうぞ」
 与之助はそう掃部に言ったか言わぬか分からぬほどにすぐに眠気に襲われた。それに応じるように掃部も程なく眠りについた。
 払暁の薄光が障子を抜けて与之助の顔に当たった時、与之助は寝ぼけ眼で周囲を見た。すると、掃部の姿がないのである。与之助の眠気が瞬時に吹き飛んで跳ね起きると、障子を音を立てて開けた。眼前の廊下に太陽を見上げて膝を折っている掃部が居た。
「ここで、何をしておられる」
 与之助は掃部に問うた。だが、掃部は太陽に向かって何やらぶつぶつと唱えているだけで与之助には答えない。
「何をしておられるのだ」
 今度は声を張り上げた。それでも掃部は何も言わず固まっている。業を煮やした与之助は肩に手をかけた。刹那、何があったか分からぬほど気が付けば大きな音を上げてもんどりうって倒れていた。それだけではなく、掃部は素早く小刀を与之助の首筋に当て、
「邪魔をするな」
 と往時の戦場の迫力で黙らせた。そして再び太陽に向かって呟き始めた。暫くして、
「朝餉はどうした」
 けろり、というのである。
 与之助は憤然とした表情で出された朝餉を、八つ当たりするように音を立てて平らげた。それ見た掃部は、
「先ほどは済まなかった、と申しているではないか」
 と何度か言ったが、それも止めてただ掃部の朝餉の音だけが響いている。掃部の朝餉の途中、与之助の目に掃部の懐が入った。変わった数珠のようなものがこぼれそうになっている。
(……?)
 与之助がそれ見ていると、掃部は素早く懐の中にそれを押し込んだ。そして、
「何か」
 と尋ねる。与之助は、
「それは、数珠でござるか」
 と尋ね返すと、掃部は
「そのようなものだ」
 と答えた。無論、間違いではない。耶蘇教におけるロザリオと、仏道における数珠はその使い方も同じようなもので、何処の宗教にも似たようなものはある。しかし与之助は違和感を禁じ得ない。僧侶が念仏なり祈祷なりをするのは本堂にある仏像の前によってのみ執り行われるもので、太陽を拝むという風習はない。無論、太陽は釈迦如来の化身であり、けっして仏道に置いて間違ってはいない。しかし、仏教者たる坊主が朝一番に太陽に向かって祈るというのはあまりないであろう。
 与之助がそこまでの宗教観を持っているのかどうかは分からないが、その与之助でその違和感を感じたのであるから、その疑問はあって然るべきであった。
「まことに、そうでござるか」
 と聞くのをやめた。これ以上話をこじらせるのは得策ではないからである。
 二人はすぐに支度を整え、宿を貸してくれた家の主に些少の金子を渡して礼とし、中山道を歩いて行った。

 家康はすでに伏見から駿河に向かって下向し始めているが、その足取りは重く、家康も輿に乗るのがやっとというほど衰え切っていた。顔も日に日に痩せて、かつて「たぬき」と称された下膨れの顔はすでに無くなっている。伏見を出、そのまま大津にはいって東海道に出る。大津で体を静養させ、再び草津でまた静養するという、多分に緩やかな帰路である。
「年かな」
 家康はそういって皮膚の垂れた痩せ顔に無理して笑いを作った。そして脇息にもたれかかって楽な姿勢になると、
(最後の最後で面白い余興をする)
 と先に仙台に向かっている眼帯の壮年を思い浮かべて苦笑している。
(見事逃げ切って見せれば、不問に付すか)
 家康にとって明石掃部という存在は実はとるに足るものではない。片や日本を手中に収めた最高権力者であり、片や敗残の一武将である。その敗残の武将が、喩え同じ耶蘇教徒を掻き集めたとして、本拠地を持たぬ流浪の軍に過ぎず、その物自体は大したことではない。
(むしろ怖いのはその後ろだ)
 と家康は考える。その後ろ、というのは政宗を指す。
(政宗を敵に回すのは、ちと厄介である)
 と考える。奥羽の英雄であり、今は希少種となった戦国気風があの男にはいまだに色濃く残っている。今となっては天下を狙う考えがないのは明白ではあるが、しかしながら政宗一流のへそまがりがここで出てしまえば、たかか一武将の為に、大戦が起きる可能性がある。そこまで行かずとも、その軍事力と奥羽での石高という経済力を背景に、揺さぶりがないとも言えない。天下の御意見番を自任している政宗が与える影響は尋常なものではない事も分かっている。
(それにしても、なんとも厄介な遊びを考え付いたものよ)
 と家康は政宗の事を憎からず思うのである。
「誰ぞおる」
 力のない家康の声に応じたのは伊賀者の護衛である。どうなっているか、と家康はその者に問うた。掃部の行方である。
「四方手を尽くして探しておりまする。越前の方に向かった報せを受けて、幾人か配置いたしましたが、途中で行き先を変えたと見え、探索中でござりまする」
 とその者が答えると、家康は愛の手を討つようにうなずいた。
「まあ、ゆるゆると進めよ」
 と家康はいった。伊賀者は変に感じた。これまでの家康であれば、何としても探し出し、処断することを最良としていたからである。三成などが好例である。ところが、それをゆるゆると進めろ、という。これでは逃げてしまうのではないか。
 伊賀者はそういいかけたがそれを止めた。家康はすでに目を閉じて休んでいたからである。

 政宗はどうか。
 政宗はすでに江戸目前にまで帰ってきている。江戸の屋敷で休みを取ってのち、仙台に戻る予定である。
「それで、二人の様子は」
 孫兵衛が伝えるところでは、恐らく三国岳を越えて中山道に入る筈である、という事である。
「中山道か。まあ、少しかかるが仕方あるまい。それよりも、伊賀者に気をつけよ。中山道においても配置しているのは明らかである」
「心得てござる」
「仙台まで連れて来るのだ」
 孫兵衛は政宗の厳命を厳に受けて、役目に戻った。暫くして、成実が来た。
「どうだ、御遊戯のほうは」
 からかい気味に尋ねてくる。
「何とか、捕まらずに済んでいる。この分だと、先に我らが仙台に戻るであろうな」
「回り道か」
「いや、中山道を通っているらしい。中山道は東海道よりも長い。その分、時もかかる」
「とすれば、それだけ捕まりやすくなるな。与之助一人では心もとないな」
「その所はぬかりはない。孫兵衛に命じている」
 成実は少し納得しかねる表情でうなずいた。
「どうした。まだ何か不服か」
「いや、このような回りくどい事は苦手だ。大御所相手に一戦仕る方が、よほど性にあっている」
「滅多な事を申すでない」
 といいつつ、政宗は成実の気性に笑っていた。それにつられるように成実も笑っている。
「とは申せ、掃部殿と与之助が捕まれば、あらぬ嫌疑がかけられるのは必定。何としても仙台にて保護をせねばな」
「されど、もし万が一捕まっても、逃げおおせる算段は整えておられよう」
 成実は自信ありげに言って見せた。
「何の事だ」
「お忘れか、太閤がまだご健在であった時の」
「大崎か」
 政宗の言う大崎、とはまだ太閤秀吉が健在であった頃の話で、奥羽で起きた葛西大崎一揆が起きた時、政宗は会津領主であった蒲生氏郷と共に鎮圧に回ったが、実はこの一揆は政宗が扇動したものである、と氏郷の告発によって始まったものである。それから人質に出した正室が偽者であるとかあるいは一揆勢の幟に伊達の家紋があったなどという噂が立ったのである。
 政宗は京に居る秀吉に弁明するべく、自ら卿に赴いて事の次第を伝えた。全てが嘘である、という事である。だが、その場に居た氏郷から政宗が使っている鶺鴒の花押の文書が証拠として差し出されたのである。政宗はそれを、
「偽書である」
 と断じて見せた。その証左は、
「政宗が使う鶺鴒の花押には目の替わりに針で穴をあけているが、氏郷が出した文書の花押にはそれがない」
 という事である。実際、政宗の使っている書状には穴があいてあり、氏郷の文書にはなかった。これによって虎口を脱することができたのである。
 成実のいう「太閤がご健在であった時の」というのはこれを指す。政宗は、
「その手が大御所に通用すると思うか。太閤殿下はあれを分かっておられたのよ。だが、この政宗が自ら出向いて弁明したからこそそれに免じてくれたのだ。将軍秀忠公には通じるかもしれんが、大御所には通じぬであろう」
「そのかもしれんな」
 成実はあっさりといった。
「とにかく、逃げおおせて仙台まで来ればよいだけのことだ」
 政宗はそういって江戸の伊達屋敷に入った。
 江戸の伊達屋敷はこの当時、桜田門の目の前にあった。現在の日比谷公会堂周辺である。政宗はそこで東海道の疲れを取ろうとした。ところが、
 ―― 急ぎ御登城さるるべし。
 という将軍秀忠による登城命令が出たのである。
「登城か」
 と政宗は事もなげに言った。成実は心配そうな顔をしたが、
「何、掃部殿の事が露顕したとは思えぬ。恐らく、秀宗の事であろう」
「それならばよいが、なるべく早く済ませたいものだ」
 政宗は頷いて、支度を整えると江戸城に入った。
 江戸城本丸の白書院にはすでに将軍秀忠が待ち構えていた。
「伊達政宗、参上仕りました」
 政宗は秀忠の前に座り恭しく頭を下げた。秀忠は見るからに喜んでいるようで、
「いや、この度の戦は疲れたであろう」
 といった。
「先の戦の御戦勝、おめでとう存じまする」
 と政宗も返す。
 秀忠の他には本多正純と小姓がいるだけである。そして正純が、
「伊達殿。此度の戦において、秀宗殿が初陣を飾られた由、誠におめでとう存ずる。ついては、その戦についてちと抗議があり申してな」
 と話すと、家臣に合図を送った。やって来たのはどこかの家中と思しき武士が二人いる。
「この者たちは、神保出羽守の家臣でござりましてな、先の夏の戦の折、伊達殿の軍より鉄砲を撃ちかけられたため、出羽守以下神保軍が悉く討ち果された、と願い出てまいりましてな、伊達殿にその真偽を確かめたく御登城願ったわけでござる」
 政宗は何のことか分からなかったが、確かに鉄砲の一斉射撃を命じた事は間違いない。神保遺臣は恨みの籠った目で政宗を睨み付けているが、政宗はそれを意に介さず、
「確かに鉄砲を撃ちかけるよう命じたのは間違いござらぬ。だが、あの時はすでに神保隊がすでに明石掃部の軍によって突き崩され、それが我らに及びそうになったので撃ち返して体制を整えたまでの事。大体、戦における流れ弾なぞで一々抗議をされては堪らぬ」
 と言った。これには神保遺臣の某が、それでは主君が浮かばれぬではないか、と唾を飛ばして捲し立てた。すると政宗はその者を単眼で睨み付け、
「ならば問うが、あの時戦場において敵味方が入り乱れている最中に、敵だけを撃ち狙えるというのか。戦場で死ぬのは武士として本望であろう。貴様ら外様の軍の為に我ら伊達の軍までが共倒れになれば、この戦どうなっていたか分からぬぞ」
 と怒鳴り散らした。その迫力に遺臣はおろか、将軍秀忠ですら背筋を寒くさせるほどである。されど、と遺臣はさらに食い下がろうとするが、
「そもそも貴殿らが属していた水野勝成は、鬼日向とか言われてもてはやされておるが戦場を見極めぬ猪武者ではないか。そこに属したのが運の尽きと思召されよ」
 と追い討ちをかけるように言った。その上で、
「秀忠様」
「な、何じゃ」
「この神保出羽守が遺臣の心意気に免じ、何卒家督継承を御願い奉りまつる」
 政宗が伏して言うのへ、秀忠も
「神保の遺臣たちも言いたいことはあろうが、過ぎた戦の事を言い合いたところで出羽守が還ってくるわけではない。これ以上の無体は申すな」
 といって、遺臣たちを慰めた。秀忠はその場で諾、とは言わなかったがこの後、出羽守の嫡男である神保大学は直参の旗本として家名を復活させることになる。神保遺臣はまだ不満げではあったがこれ以上は不毛になる、と考えて退き下がった。
「用件はこれでござったか」
 政宗は表情を切り替えて秀忠に尋ねた。秀忠は、
「そうであるが、なにぶん向こうの顔も立ててやらねば始末におえぬ。許してやってくれ」
「それはようござりまする。全ては過ぎ去った事でござる。しからばこれにて」
 政宗が立ち上がろうとした時、秀忠の嫡男竹千代(のちの家光)が少年らしく活発な足取りでこちらにやって来た。秀忠は、
「誰が連れてきた」
 と尋ねた。すると守役の松平信綱が平伏して、伊達殿がやって来たことを竹千代君が知った為、会いたいといってきかずこのような仕儀になりましてござる、と言った。秀忠は、やれやれ、と言った表情で
「竹千代、伊達殿は疲れておる。遠慮いたせ」
 と言い聞かせるが、竹千代は
「伊達の親父殿、話を聞かせてくれ」
 と戦話をせがむのである。これには政宗も抗しきれず、
「分かり申した。この政宗、たんと戦話をして差し上げましょうぞ」
 とにこやかな顔で答えた。秀忠は目で
(すまぬ)
 と合図を送ると、政宗は頷いて答えた。
 政宗が江戸城を出たのは随分と夜が更けた頃で、竹千代が床に就いたのを見届けてからであった。
 江戸の伊達屋敷は殆どが静まり返っていたが、成実と茂庭綱元は、政宗の帰りを待っていた。政宗は二人の待つ書院の間に入った。政宗は綱元の姿を見つけると、
「宇和島はどうだ」
 と尋ねながら座った。
「はっ、殊の外、民百姓は秀宗様に靡いておられ、宇和島には別段変わりはござりませぬ。……それよりも、明石掃部殿がこちらに来ている、と聞き及びましたが」
「厳密には京の伏見屋敷で匿っていたのだがな、いつまでも伏見に居てはいずれ露顕すると考え、仙台に迎え入れようと思っている。その為、別儀で直に仙台に向かってもらっているのだ」
「されど、それでは大御所配下の伊賀者に目をつけられぬとも限りませぬぞ」
「その為に黒巾脛組を遣わした。まあ、これで万が一捕まるようであれば切り捨てる所存である」
 綱元は少し安心したようで、
「それならばようござりまするが」
 と言って少し間を置いた。
「しかし何故このような仕儀に」
 と尋ねると、こんどは成実が
「これは殿の意趣返しだそうだ」
「意趣返し?」
「嘗て百万石のお墨付きを反故にされた大御所への当てつけだそうだ。もし無事仙台に着けば殿の勝ち、途中で捕まれば大御所の勝ちとな」
「それではまるで双六のようなものではないか」
 綱元は目を丸くした。
「まあ、これで戦の無い世の中になるであろう。だが、それでは面白うない。といって、今更将軍家とみだりに事を構えるのは許されぬことだ。それゆえ、大御所から掃部殿を救いおおせるかどうか。それが政宗にとって最後の戦だな」
 といって政宗が笑うと、二人も大いに笑ったのである。

 政宗の江戸滞在は思ったより長引いた。というのも、竹千代が戦話をせがんで毎日登城を命ぜられていたからである。
 だが、一方でこの滞在は掃部と与之助の消息を知るにはうってつけの期間ともいえた。
「転んでもただでは起きぬわ」
 と成実は感心している。
 事実、黒巾脛組の報せは政宗を満足させるもののようで、政宗の機嫌はすこぶる良かった。
「成実、掃部殿はすでに江戸手前らしい」
「ほう、それは上々」
「与之助によれば、そこから日光に向かい、さらに奥羽とある」
「それでは日光が最も難関であるな。何せ大御所とは所縁が深い故な」
「手抜かりさえなければ、仙台まですぐだ」
 政宗は再び仙台に向けて出立した。
 与之助は中山道を掃部と共に向かいながら、一つの疑念を膨らませていた。
 以前にあった、美江寺宿での出来事である。あれから、与之助は掃部については「承安という僧侶で、政宗に所縁のある者」という事以外にはなるべく触れぬようにしてきた。だが、その「承安」の取る行動を見るにつけ、黙殺できないようになっていた。
 例えば、日が上がる頃になると必ず仰ぎ見るように跪いて何やら唱えていたり、あるいは食事の際でも食べるまでに何やら呟くなどして、行動の一つ一つに大きな違和感を覚えるのである。
 その最たるものが、「承安」の持つ数珠であった。本来数珠は丸い石を繋ぎ合わせているものであるが、「承安」の持つそれは明らかに違っている。見た目こそ数珠状の物であるが、本来持っているはずの物とは似ても似つかぬ代物である。与之助は「承安」が明らかに僧侶ではない、という所までは見抜いている。
(とすれば、あの承安なる者は一体何者か)
 という一つの興味が頭をもたげてきた。すでに旅路は日光に入り、このまま北に向かえば奥羽街道に入る、宇都宮に入った時である。与之助は意を決し、宇都宮の宿場で、「承安」に尋ねた。
「承安殿は、一体何者か」
「何者、とは」
 掃部はすでに与之助の意図を分かっている。
「少なくとも、坊主の類ではあるまい。念仏一つ聞いたことがない故な。そのくせ、朝になると必ず日に向かって何やら唱えておられる。貴公、伴天連か」
 掃部の表情が刹那、変わった。
(やはり)
 与之助は確信を一つ得た。だが、まだ分からぬことがある。この眼前にいる伴天連を主君である政宗が匿っているという事である。単なる伴天連を、奥羽随一の大名がその危険を冒してまで匿うはずがない。与之助はもう一度問うた。
 「承安」は遂に、
「それがしは、明石掃部頭である」
 と告白したのである。
 明石掃部頭、と与之助はなぞるようにつぶやいた。確か大坂の陣において主君・政宗と戦って後、行方をくらましていた大坂方の大将の一人で、しかも伴天連の武将である。与之助の膝が震えている。
「あ、明石掃部頭様」
「左様」
 掃部は答えたが、与之助は口を動かすだけで言葉になっていない。
「何故、このような所に」
 と言いかけて与之助はやめた。今までの経緯がそうではないか。だが、与之助の聞きたいことはそこではない。だが、適当な言葉が浮かばないのである。掃部は、
「何故、それがしが伊達殿の世話になっているのか。それを聞きたいのであろう」
 掃部はそう推察して与之助を見る。そして、
「夏の戦の後」
 と話し始めた。
「それがしは燃え盛り落ちていく大坂城を後目に、戦場を離れた。真田殿をはじめ、大坂城にいた大将の悉くが死に、それがし一人になった。最早戦う力も、兵も、大義も、何もかもが消え去った。その後は流れ流れて、気が付けば伏見に居たのだ」
「それがなぜ伊達屋敷に」
「伊達殿が、耶蘇の教徒である、と聞いていた故、同じデウスの神を信じる者として、其れに縋ったのだ」
(殿が、耶蘇の)
 与之助は頭を激しく揺さぶるような感覚に陥っていた。禁教である耶蘇の教えを、主君が守っているという事実は眼前にいる男が明石掃部であるという事をはるかに凌駕するほど衝撃的であった。掃部は与之助の狼狽ぶりを手に取るように理解している。
「そ、それがしを謀ったところで何もなりませぬぞ」
「謀ってはおらぬ。それがしとて、伊達殿が耶蘇の教徒であるかどうかの確たる証は持ち合わせておらぬ。だが、それがしはそれに縋るしかなかった。自ら命を絶つ事をデウスは禁じておられる。生きるしかないそれがしにとって、伊達殿はその唯一の綱であったのだ」
 与之助は信じられぬ、という表情で何度も否定しようとするが、主君・政宗の今回の命を考えると、そのように捉えることも不可能ではない。そうでなければ、幕府が血眼になって探している賞金首のような男をかくまうわけがないからである。
「神崎殿、仙台に連れて行ってくれぬか」
 哀願といったほうがよいかもしれない。掃部の言葉にはそれだけの哀しさがあった。それは死を賭する武将ではなく、一人の、生を懇願する異教徒でしかなかった。
「……、最後に一つ。承安、とはどういう謂れで」
「それがしの洗礼名が、ジョアンなのだ」
 与之助はくすり、と笑った。その直後には腹を決めていた。
 宇都宮から仙台までは、六十四里と十町ある。奥州街道である。二人はこの奥州街道を取って仙台に向かう。仙台には十日ほどの旅程となる。
 羽州街道との分岐となる桑折を過ぎて、仙台の手前、長町宿に入った。
「何とか無事にここまでこれた」
 掃部はそういって与之助に何度も頭を下げた。与之助は、お役目を仰せつかっただけ、といって笑い混じりにおさめようとした時、辺りの異様さに気づいた。
(ここまで来ていたか)
 与之助は掃部にすぐに出立するために支度を急がせ、自らも疲れた精神をもう一度奮い起こして宿を蹴破るようにして出た。
 やはり、伊賀者であった。
「明石掃部頭殿でござるな」
 掃部は神妙に頷くと伊賀者たちは二人を取り囲み、
「素直に駿府にお越しくださればその御身を安んじましょう」
 といった。掃部が話す前に、与之助が
「ここは仙台伊達家の領地でござることは御承知であるや。ここで騒ぎを起こすことがどういう事かお分かりか」
 と怒鳴った。伊賀者はそれには怯まない。
「いかな伊達とて、大御所様には逆らえまい」
 伊賀者のうちの誰かが言った。与之助は隠し持っていた得物を出して構えると、掃部にすぐに逃げるようにいった。
「北に行けば、仙台城がありまする。そこへ逃げ、殿にお会いなされませ」
 掃部は留まろうとする。だが与之助に止められた。
「城に向こうてくだされ。ここで二人が死ぬことはない」
 与之助に言い聞かされて、掃部は後ろ髪が引かれる思いで長町宿を走り去った。急いで伊賀者が追おとするのを与之助が遮った。
 長町宿から仙台城まで一里ほどである。出たのが子の刻過ぎであったが、月に雲がかかっていないのが掃部に幸いした。走り始めてすぐに仙台城が遠くに見えた。それから間もなく楼門型の壮麗な大手門が見えた。門番は無論、この走ってくる坊主崩れの男が明石掃部と知る筈もなく、あからさまに疑わしい目を向けて
「何者じゃ。ここを伊達政宗公の仙台城と知ってか」
 と遮った。掃部は自らの身分を明かし、政宗に取り次ぐよう頼んだ。門番のうちの一人が城内に入っって中に取り次いだ。

「掃部殿が来た、と」
 政宗は注進してきた家臣から聞いて、この双六遊びの勝ちを確信した。
「すぐにこちらに通せ」
 程なくして掃部はそのままの格好で政宗に会った。
「掃部殿、よう参られた」
「伊達殿、長町という所から参ったが、実は神崎与之助殿が伊賀者と戦っておりまする。助けてはもらえまいか」
「心得た。すぐに人数を整えましょうぞ」
 政宗はそういうなりすぐに数名の家臣を呼び集め、長町まで向かうよう命じた。
 一方、与之助は伊賀者に囲まれたまま逃げおおせるのが手一杯で、とてもかなうものではない。
(掃部頭様が無事につけばそれでよい)
 与之助は自分の命を諦めている。恐らく、今頃は仙台城についている頃であろう、そうなれば掃部が掃部である事を知っているのは自分一人である。その自分が死ねば、ついに大御所は掃部に手が届かなくなる。
(それでよい)
 と与之助は得物を投げ捨てた。その時、遠くから
 ―― 何事であるか。
 と暗い土煙を上げ乍ら数人の武士がやって来た。と同時に、伊賀者が引き上げていく。
「……??」
 与之助は事態が呑み込めていない。暫くして、政宗から遣わされた者たちであると知り、安堵しきって膝から崩れ落ちた。
 与之助は二の丸の庭先に畏まって座っている。その縁側に政宗と掃部が見下ろすようにして座っている。
「神崎与之助」
 政宗の声に与之助が応じた。
「この度の役目、骨折りであった。この政宗より褒めて遣わす。もし何かあれば遠慮なく申せ」
「では、一つお尋ねいたしたき儀がござりまする」
「申せ」
「殿は、伴天連でありましょうや」
 与之助は面を上げて尋ねた。政宗は単眼でこちらを睨み据えている。
「何故聞く」
「そこに居られる承安殿の正体、この神崎与之助はすでに承知しておりまする。その上でお尋ねいたしておりまする」
 政宗の顔から血の気が引いた。
「この政宗が切支丹かどうかを知りたいのか。知ってどうする。公儀に届け出るか」
「いえ。知った上は生涯口に申しませぬ」
 政宗はしばらく考え込んだ。そして、与之助に近くに来るように言うと、懐から何かを取り出して見せると、与之助は納得した表情で再び下がって平伏した。

 掃部は暫く仙台に居たが、やはり幕府の追及が厳しくなってきた。
「そこへ、津軽信枚殿が掃部殿を受け入れてくれるというので、掃部殿はそこで生涯を終えられるがよい」
 と政宗がいうのへ、掃部も信枚の事はよく知っていたので、すぐに応諾した。
 程なくして掃部は津軽領内に入った。それを政宗が知ったのは掃部からの手紙を受けての事である。
 政宗はこの頃になると、成実とは毎日のようにあっては馳走をして酒を酌み交わしている。
「今頃、掃部殿はどうなされいるかな」
「掃部殿は備前の生まれと聞く故、この冬の寒さは堪えるであろうな」
 政宗はそういうと笑っていた。
 ところがしばらくして。津軽信枚より手紙が来たのである。政宗は不思議に思って中を読みはじめると、茫然とした顔をして成実に渡した。
「どうされた」
 と成実は受け取って読みはじめると、あっ、という大きな声を上げた。
「か、掃部殿を成敗した、と」
 手紙にはこう書いてあった。
 信枚は掃部に捨て扶持程度の土地を与えていたが、実はこの信枚は家康の帷幕の一人である南光坊天海の弟子であった。信枚によれば、天海によって掃部成敗を勧められ、幕府の手前抗う事も出来ず成敗した、という主旨であった。
 政宗は憤懣たる気分を荒い鼻息をついて天井を見上げた。成実は
「仙台までが勝負であった。これは、殿の勝ちだ」
「だが、掃部殿を助けおおせることは出来なかった。その意味では負けよ」
 成実はしきりに口惜しがっていたが、政宗は存外にあっさりとしていた。
「引き分けは五分の勝ちと申すからな」
 というのが、政宗のこの件における最後の言葉であった。
 ちなみに、家康はこの知らせが来る直前、出先の鷹狩で倒れて昏睡状態にあった為、この双六遊びの結果は聞いておらず、そのさきも聞いていたのかどうかは、今となっては定かではない。

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