雷 第十話


 十兵衛が将来に対する悩みは、おみよが一子・虎次郎を出産したことで、より現実味を増している。当然、十兵衛は焦るが、焦ったところでどうしようもない状態であるのが余計につらく、それはおみよとの仲にも出始めていた。
 ―― 武士を捨てるか。
 という選択を、厳然と考えなければならなくなった。
 蝉がけたたましい仕事を行っている。おみよは産後の肥立ちが良かったため、仕立ての仕事に早く戻ることができた。その一方で、十兵衛は道場に通いながら幸いにも商家の用心棒などをこなし、些少ではあるが稼ぎができた。
「体を厭うてくださりませ」
 おみよは稼ぎの割に合わぬ十兵衛の仕事をそう婉曲的に諭したが、十兵衛は十兵衛で責任を感じての事であるだけに、これ以上は言わずにいた。何よりも、稼いでくる、という行動がおみよにとって安心したのが本音であった。
 この時期、歴史はほんの少しの小康状態になって、ことに大きな政治的事件はなく、季節は秋深くなり、馬肥ゆる季節になった。その矢先である。
 安政二年十月二日である。
 この日は朝から細雨が降り、外套を張り巡らしたような湿り気の霧が江戸を囲っていた。十兵衛はいつもの通り傘をさして、無音の雨を過ごしながら道場で汗を流した。細雨は未だやまない。これが上気した体を程よく冷やした。十兵衛は少し疲れた体に叱咤しながら、用心棒の片手業の為に浅草黒船町の観音寺屋という店に入った。
 観音寺屋は、店は小ぶりながらも薬種の問屋で、用心棒を雇えるほどの御店である。用心棒は十兵衛ともう一人がそれぞれ昼と夜とで常駐し、十日ごとに入れ替わるのである。もう一人は某といって十兵衛と同じように食い詰めた浪人であった。
 この仕事を受けて丁度一か月たったのが、この十月二日であった。この日の夜番が十兵衛であった。
 亥の刻を少し過ぎた頃である。
 十兵衛はこの時、用心棒用の三畳ほどの小部屋にて仮眠をとっていた時に起こった。
 突如としてふわり、と浮いたような錯覚が起きたか、と思うと叩きつけられるようにして落ちた。さらに大地は烈震し、立ち上がることもままならぬほど鳴動して、漆喰の壁はみるみる崩落し、まるで巨人がゆするような大きな地殻変動が起きた。所謂「安政江戸地震」である。
 震源地は江戸の中央部にあり現在では千葉県市川市が、その震央だとする説が大きい。
 この地震の被害の規模は後世の歴史に詳細に残るほど非常に大きなもので、これほどの大きな地震は安政より以後では大正十二年に起きた関東大震災くらいのものであろう。
 「江戸編年事典」によると、この被害は激甚で、地震の他に数十カ所から火の手が上がり、江戸が火の海になった。また被害地域も丸の内の武家屋敷を初め、上野、隅田界隈、本所、深川いたるまで相当の範囲で被害が大きく、焼失家屋が十万戸と記録で残っている。当時の江戸の総家屋数が三十六万戸であるから凡そ三分の一が焼失し、死傷者も二万二千人と江戸人口の凡そ三百人に一人が死傷した計算になる。実際の被害を書けばこの稿は大きく割かなければならないので割愛するが、この地震の余震は一月丸々続いた。
 その間、荒れ狂ったように人々の不安は頂点に立ち、まさに阿鼻叫喚といっていい状態が続いていた。無論、十兵衛のいる観音寺屋も例外ではなく、瓦は全てずり落ちてなくなり、柱は大きくゆがみ、辛うじて家屋の体裁は整ってあったが、それでもいつ倒壊するかわからぬほどにゆがみ切ってしまっていた。
「御救い小屋に向かえ」
 と十兵衛は観音寺屋の夫婦に告げた。江戸では五ケ所に御救い小屋といういまでいう所の緊急避難場所のようなものが作られていた。十兵衛は夫婦をそこに預けると、自らは家に戻った。
 十兵衛の長屋がある浅草界隈でも被害は大きく、十兵衛のいる長屋もほぼ壊滅状態であった。十兵衛は経った一夜の変貌に自失になった。
「おみよ、虎次郎」
 と近くを探したが、出てくるのは焼け焦げた柱と燻っている廃材だけで、人気が全く見当たらない。近くにいた者に聞けば、
「御救い小屋に逃げ込んだんじゃねえか」
 というので、急いで向かった。長屋連中はそこにいた。
「達磨の旦那、御無事でなにより」
「ああ、皆も息災だったか。おみよと虎次郎は」
 常吉はいつもと違う、申し訳なさげな表情を浮かべて、
「それがどこにも見当たらないんで、どこに逃げたのやら」
「分からんのか」
「今、他の御救い小屋に行ってきたところなんですがね、どこにも見当たらないんで」
 十兵衛はすぐに長屋に戻った。十兵衛は自らの家の前に立つと、まだ高温の廃材を必死の形相で取り除き、おみよを探した。すると、大きな床柱の下から女の焼け焦げた腕を見つけた。
「誰か、誰かおらぬか」
 十兵衛は声の限りに叫んだ。すると数人の男がやって来た。十兵衛が説明をすると、男たちは腕をまくって引き上げた。
 やはりおみよであった。頭を大きく割って、すでに事切れていた。虎次郎の姿も隣にあって、同じく下敷きとなっていて原形をとどめていなかった。十兵衛は獣のような叫び声をあげて、泣いた。慰めるようにして男が肩を何度か叩くと、十兵衛は心得て頷くと男たちは去った。またせり上がってくる感情を殺さず、十兵衛はただ泣いた。しとしとと気休めの雨が十兵衛の背中を抱くようにして降った。

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