猪と犬

「何卒、関東管領様にお取次ぎを願いとう存じまする」
 骨喰み屋と名乗った三十の坂を少し上がり始めた商人が、河越城の西、入間川の中州になる柏原の関東管領上杉憲政の本陣の下を訪れたのは、天文十四年の十月もすでに半ばを過ぎての事であった。
 この一月ほど前、上杉憲政は、同じ上杉一族の扇谷上杉朝定と、古川公方・足利晴氏と共に連合軍を作り上げ、八万もの大軍でもって武蔵河越城を包囲した。河越城主は北条綱成という武将で、城兵は凡そ三千程度。一気に踏み込めば、木の葉を踏み潰すようにして城を落とすことができる筈であった。が、北条綱成もよく戦い、兵をうまく使って容易く城を渡さなかった。そこで憲政はこの大軍でもって包囲戦に持ち込んだのである。骨喰み屋が本陣に現れたのである。
 番兵はこの若い商人をあからさまに怪しんだ。
「いや、それはできん。戦を最中だ、どういうものが入り込むか知れたものではないからな、素性のしれた者のみを入れているのだ」
「そこを曲げてお願い申し上げまする。手前どもは、元は小田原で商いをしていた者でござりますが、この戦を聞くに及んで、北条での商いは出来ぬ事と思い定め、関東管領様に誼を通じたくやって来た次第、それにこれほどの大軍であれば、我らの懐具合も潤いますのでな、是非ご商売に」
 番兵は迷った。言う事自体は筋が通っているし、なるほど利に聡い者であれば、ここだけで商いで儲けが出来る、と考えてもおかしくはない。
「そこまでいうのであればまあ、お伺いを立てぬことはないが、何を扱っているのだ」
 骨喰み屋は、これでござります、と後ろに目をやって見せる。番兵もそれにつられて後ろを見遣ると、篝火の奥で、酒と共に少し肌蹴た女たちが明らかに色香を振りまいている。その白粉の淫靡な匂いが、番兵の鼻梁の奥を、槍の如き鋭さで突いた。刹那、番兵の顔は見ていられぬほど緩み切ってしまい、
「わかった。すぐに取り次ぐ故、暫く待て」

「骨喰み屋とな」
 憲政は、聞きなれぬ商人の屋号に、警戒を崩さなかった。
「どこの商人だ」
 注進にあらわれた番兵によると、小田原からの商人で、北条に勝てる望みがないので、こちらに商売をしに来た、というのである。
(中々かわいげのある商人よ)
 屋号の割には、と憲政は相好を崩しそうとした。が、慌てて顔を引き締めると、
「わかった。こちらに通せ」
 番兵は畏まりまして候、といってすぐに待たせてある骨喰み屋の所に戻っていった。
 番兵から許しが出た事を受けて、骨喰み屋は上杉憲政の御前に拝した。
 見れば少し公家然として、よく言えば優雅であり悪しく言えば鈍重そうな男であった。骨喰み屋はその感想をおくびにも出さず、
「この度は目通りを許していただき、ありがとう存じまする。手前、小田原で商売をしておりました骨喰み屋の猪兵衛と申しまする。関東管領様におかれましては、是非ともこれからのお世話をさせていただきたく存じますれば、何卒よろしくお願い申し上げまする」
 といって、地面にめり込むように伏した。憲政もこれには憎からず思い、
「いや、北条を見限って、我らについたのは実に目敏い。それに免じて、此処での商売を許す。勝った暁には、城下での商売を一手に任せるぞ」
 と言った。猪兵衛はこれに大層驚いて、
「まことでござりますか」
「ならば今すぐにでも免状を書かせようぞ」
 憲政は祐筆を呼んで一筆したためさせると、それを自ら手渡した。猪兵衛は恭しく貰い受けて、
「それでは今日は大盤振る舞いいたしましょう」
 といって手を三度叩くと、女たちが色気と静寂さを同居させてはいってきた。これに最初は驚いた憲政もすぐに鼻の下を伸ばし、
「この女どもは貰い受けてもよいのか」
 といいながら、すでに気に入った女を傍に侍らせている。猪兵衛は、
「よろしゅうござります。……お前たち、粗相のないようにな」
 女どもは艶やかな声で返事をした。猪兵衛はこれに満足げに頷くと、
「では酒をもっと持ってまいります」
 といって本陣を後にした。
 猪兵衛は暫く酒を持ってはくまなく陣中を廻り、少しでも集団を見つけると酒を持ってふらりと向かって振る舞っていく。酒と女を渇望していた兵たちにとって、猪兵衛は一種の福神のように思ったのであろう、猪兵衛と骨喰み屋の名は瞬く間に広がった。噂は憲政の本陣にとどまらず、同じ上杉の修理大夫朝定、さらに古川公方の足利晴氏の陣にまで届いた。そうなると猪兵衛は河越城をこれみよがしに東奔西走することになり、それに応じて商売の売り上げもうなぎ上りに上がっていった。
(だが、それは要ではない)
 猪兵衛はそう考えている。要であるのは、この上杉足利連合軍の情勢である。これをつぶさに見ることができたのが、猪兵衛にとって何より重要な事なのである。そして、総じて連合軍の士気は緩やかに下がり続けている。下がっているというよりも、油断をしているといったほうが適切かもしれない。大軍を擁して包囲しているという事と、河越城の軍勢が小勢である事も、油断につながっているのであろう。それが酒と女を配することで、余計に下がっている。
「これでは、単なる物見遊山の集まりだな」
 陣から離れた猪兵衛はそういうと、それまでの愛嬌のある恵比須顔から一転して、怜悧な顔に変わっている。
(小田原に戻るか)
 これまでの情報を、小田原にいる北条氏康に届けねばならない。
 猪兵衛は篝火が点在している陣をみながら、身を隠すように闇に溶けた。

 北条氏康は、梟雄として名高い伊勢盛時こと北条早雲の孫にあたる人物で、先代の氏綱より北条の家督を継いだばかりの青年であった。この夜の氏康はまんじりともせず、小田原城天守から河越城の方角を凝視し続けている。
「御館、猪助がもどりましてござる」
 家臣で、北条家お抱えの忍び集団の頭領である風間小太郎に促されて、氏康は向き直った。猪助、とよばれた猪兵衛が商人姿のままで平伏していた。
「河越の様子はどうだ」
「はっ、上杉及び足利軍に関しては、すでに士気の緩みが出ておりまする。そこへ、我が酒と女を送り込みましてござる」
「それで、さらに士気は緩んだか」
 氏康は無表情に言った。
「だが、まだ油断は出来ん。士気が緩みはじめの時ではなく、完全に緩み切った頃を見計らって叩かねば、綱成を助けることは出来ぬ」
 と、元来慎重な性質のこの青年は勇んで出陣するということをしない。それどころか、さらに調略をかけようというのである。
「では、まだ」
「そうだ。様子を克明に報せてほしい。同時に、出陣の支度をしておくように触れを出しておけ」
 氏康はそういうと再び河越城の方角を見つめなおした。
 骨喰み屋猪兵衛こと二曲輪猪助はその後も商人に身を変えて、度々連合軍の陣を訪れては酒をふるまい、また女をあてがった。そうすることで、連合軍の士気はとみに緩み、まるで花見見物の酔客の如く、規律規範を全く失ってしまっていた。その報せを度々受けていた氏康は小田原を出立、河越城の南を包囲する足利晴氏の軍の南西、武蔵府中に陣を張った。天文十五年の四月の初めである。という事は、猪助の調略は凡そ八ヶ月にも及ぶ壮大なものになっていた。
 氏康はここでもすぐに突撃しようとせず、足利晴氏の軍をつついては逃げ、逃げおおせてはまたつつくという小競り合いにもならぬような小戦を続けた。さらに憲政には、
 ―― 河越城の北条綱成及びその城兵について助命願う。
 という内容の密書を何度も送っていた。
 憲政はすでに本陣に居乍ら全くの骨抜きになってしまい、氏康の事を
(三代目の暗愚よ)
 と完全に侮っていた。
「骨喰み屋、これを読め」
 と氏康からの密書を猪助に渡した。
「おぬしが北条を見限ったのは、正しいぞ。北条の倅は、そうして命乞いをしてきておるわ」
 猪助はこみあげてくる笑いを押し殺しながらさも驚いたような表情を見せ、
「北条氏康という御人は、よほどの腰抜けと見えますな」
 憲政は、猪助のいう「腰抜け」という表現に腹を抱えるほどに笑った。
「そうじゃ、おぬしの言う通り腰抜けじゃ、腰抜けじゃ」
 と何度も繰り返した。
 実際、氏康に対する侮りは連合軍全体に及び、最早氏康が少し軍を進めても誰の指一つ動こうとはしなかった。
(そうだ、これを待っていたのだ)
 氏康は状況を鑑みて、八千の兵全員に白の目印となる装束を身にまとわさせ、喩え敵であっても白の装束を身に着けている者は決して殺さぬよう、徹底して通達し、同時に河越城にもそれを報せた。
 全軍が整ったは四月二十日の子の刻過ぎ、氏康は先ず南の晴氏の軍を襲った。
 これまで小競り合いしかしないと、たかをくくっていた晴氏軍は全く戦うことなく、古川方面に敗走した。
「何が起こったのだ」
 憲政は晴氏の取った行動が理解できないでいる。まさか氏康の軍が蹴散らしたとは夢にも思っていなかった。だが、本陣のすぐそばで起こっている鬨の声は、明らかに上杉の軍のものではない。
(まさか)
「そのまさかよ」
 猪助の声はすでに猪兵衛ではない。憲政は猪助の表情を見て、全てを理解し、同時にその策謀の壮大さと周到さに失禁するほど恐怖した。猪助は腰に隠してあった忍び刀を抜くと一気に間合いを詰めて憲政の首を狙った。が、甲高い金属音が鳴った。
「お、おお。犬、犬よ」
 憲政は聞き取れぬほどの振るえた声で、猪助を妨げた若い忍びの名を呼んだ。
「早うお逃げなされ」
 犬、と呼ばれた太田犬之助は苛立つようにして言った。憲政はそのまま陣幕を突き破って上野の方に逃げ帰った。
(仕損じた)
 と猪助は思ったがそれで慌てるほど幼くはない。つめた間合いを戻して忍び刀を仕舞うと、一目散に小田原に逃げ始めた。犬之助もそれを追いかける。
 猪助は風間の中でもとりわけ足が速い。その速さは忍びの術が最も長けている小太郎ですら舌を巻くほどで、おそらく猪助を越えるものは日ノ本でも数は少ないであろう。
「それにしちゃよくついてくる」
 猪助はまだ犬之助を賞賛する余裕があった。というのも、逃げる猪助と追いかける犬之助との間は一間半ほどの差が開いていたからである。犬之助の走りぶりを見るなり、
「よく仕込まれてある」
 と後ろをついてくる若い忍びに悪しからぬ感情を持っている。
(だが、このまま逃げ切れるだろう)
 と猪助は高をくくっていたのだが、次第にその余裕がなくなってくる。というのも、開いていくはずの一間半の差が、三里を越えても全く変わらず、犬之助の様子も見る限りでは汗一つかいていないようである。
「小癪な野郎だ」
 猪助は途中で懐から百雷銃を取り出した。百雷銃とは小さな筒をいくつも連ねて連続で爆破させる一種の爆竹のようなもので、これによって敵を怯ませる事が出来る。猪助は百雷銃の導火線に器用に火を点け、それを犬之助に向かって放り投げた。刹那、けたたましい爆裂音が犬之助の三半規管を直撃した。だが、犬之助はそれではひるまず、執拗に追いかけてくる。
 猪助の顔はどんどんひきつっていく。すると、走り始めて六里に差し掛かった時、馬が繋がれている百姓家を見つけると、十字形手裏剣でつないでいた綱を断ち切り、さらに馬に向かって飛びくように乗ると、馬は大きく嘶いて体を反り上げたが、
「どう、どう」
 と猪助は馬を優しく宥めると脇腹を挟むようにして蹴り上げた。馬はそれを受けて走り出す。そうなるといくら犬之助でも追いつくことは不可能である。猪助は虎口を脱することができたのである。
 一方の戦はというと、足利晴氏の敗走を始め、上杉憲政は上野平井城に向けて逃げおおせることができたが、連合軍の一角であった上杉朝定及びその重臣の難波田憲重、憲政の重臣である本間江州、倉賀野行政は殿を勤めてそれぞれ戦死、連合軍の被害は一万三千という大損害を被ったが、一方で北条軍は数百名にも満たぬほどで、河越城は守り通すことができたのである。

 と、ここまで書けば河越夜戦は終わったのであるが、猪助にとっての夜戦はまだ終わっていなかった。
 猪助は犬之助をどうにか振り切って小田原に戻ってきたときには、戦の大勢は決していて、猪助は憲政の首を取ることができなかったどころか、結局本戦にも参加することができなかった。
 これが大いに猪助を矜持を傷つけたのである。
「奴は骨張りの男である故な」
 そう小太郎は言った。骨張りとは、骨のあるというほどの意味で、気骨溢れる奴、という事であろう。
「まあ、しばらくは猪助の好きなようにさせよ。当面は戦もないであろうからな」
 首領にそう気遣われているのを知ってか、猪助は小田原城下の一角にある遊女屋に上がって、馴染になった小糸という女の部屋に入り浸っていた。小糸は美人というよりも愛嬌のある小柄の女で、全身の肉置きも程よく、これが猪助をして夢中にさしめるのである。
 だが、この時ばかりは小糸の体よりも犬之助との間の事が気にかかっていて、厳しい顔つきのまま、酒を煽っている。
「いのさん」
 と小糸はいつも猪助をそう呼んでいる。
「どうしたんですよ、そんな怖い顔をして」
「いや、そういうつもりはなかったが、そんな顔をしていたか」
 猪助は小糸にかかると、すぐに顔の筋肉が緩むようで、この時も頬を指でつつかれて苦笑いをしていた。
「ええ、そりゃもう」
 こうやって、といって、小糸は眉間にしわを寄せて顔の真似をするが、それが様になっておらず、小糸はぷっ、と吹き出すと転がるように笑った。釣られて猪助も笑った。
「いやさ、戦での出来事がどうにもな」
「この前の戦は、勝ったんじゃありませんかね」
「そうなのだがな、我の中ではまだ終わっておらぬのだよ」
 小糸は不思議そうな顔をしたが、猪助はそれに気づかず、酒を煽っている。
(どこかで、奴はやってくるはずだ)
 猪助は犬之助という男をよくは知らないが、必ず仕掛けてくるであろうことは分かっている。小糸は猪助の頬を両手で挟みこんでこちらに顔を向けさせると、
「戦の事はおかんがえなさりますな」
 といって接吻を交わすと、悪戯をした生娘のようなあどけない顔で笑った。猪助は暫く戦の事を忘れるために、小糸の体にむしゃぶりついたのである。
 そうして数日たった頃、忍び仲間の藤助という者が遊女屋に現れた。
「やはりここだったかよ」
 藤助は猪助のいる部屋のふすまを勢いよく開けた。猪助は小糸を身体の上に乗せて戯れていた。
「なんだ、場も弁えぬやつめ」
 なあ、と猪助は小糸に求めると、小糸も弾けるようにうなずいた。
「そんな事を言っている場合か」
「何か、あったか」
 猪助は小糸を脇に置くようにしてどかして半身を起こした。藤助は座って、
「実はな、河越の城下に高札が掲げられているようでな、これにざれ歌が書かれているらしい」
 といった。
「どういうざれ歌だ」
「うむ、『駆り出して 逃げる猪助 卑怯者 能くもおおたが 犬之助かな』というものらしい」
 猪助は先ほどしまい込んでいた骨張りの気分を、引き出しの奥から引っ張り出すようにして思い出した。
「ふざけた事を言ってくれるな」
 猪助の様子を見た藤助は、
「気にするな、忍びの仕事は命のやり取りではない。お前は仕事をやったのだ、これ以上の誉れはないぞ」
「だが、ここまで言われて黙っているようでは、忍びの矜持というものが無くなってしまうぞ」
「確かにおぬしの気持ちはわかる。だがな。……」
「一度、かしらに尋ねてみるか」
 猪助はそういうと藤助に後を頼むように言い置いた。
「だが、小糸には手を出すな」
 とくぎを刺すことも忘れなかった。

 風間小太郎の屋敷は、とても屋敷と呼べるようなものではなく、一見すると百姓の小屋のようなみすぼらしいものである。その場所は当主である氏康すらも知らない。その小屋の如き屋敷を猪助は訪ねた。
 屋敷の前では人の気配がなく、後ろの方で薪を割る音が聞こえてくる。猪助はそこに向かった。
 壁のような背中の向こうから聞こえてくる。
「かしら」
 猪助は小太郎の事をいつもそう呼んでいる。小太郎が振り向く。牙を口の端につけたような異相が現れた。
「猪助か。……入れ」
 屋敷は小太郎以外誰もおらず、小姓はおろか女中一人すらおいていない。小太郎は額の汗を拭って客間の上座に座った。
「例の高札の件か」
「はっ、かしらもご存じで」
「一応はな。河越にも何人か入れてあるから、そこから聞いた。それで、どうするつもりだ」
 猪助は意を決するまで少し時間をかけた。
「その犬之助とかいうやつと勝負をいたしたく」
「勝負か。やっても意味はないぞ、すでに戦は終わったのだからな」
「だが、我にとってはまだ終わっておりませぬ」
 恐らく猪助にはどう諭しても、翻意させることは難しいであろう、小太郎はそう感じ取ると、
「わかった、好きなようにせい」
 といった。猪助は素直に頭を下げた。
「それで、その犬之助とやらとはどう決するのだ。戦うのか」
「いえ、忍びの術を馬鹿にされました。術のやり取りで勝負を致しとう存じまする」
 猪助はそう言って小太郎の屋敷を出ると、そのまま小糸のいる遊女屋に戻った。藤助も一緒にいるが、顔を何度も掻き毟られた跡があったので、
「襲ったのか」
 と尋ねた。藤助は、
「そうではない。『猪助はいつ帰ってくる』と何度も聞いてくるので分からん、と怒鳴ったらこのざまだ」
 と顔を指してうなだれた。猪助はひとしきり笑うと、
「今から河越に行く。おぬしもついて来い」
「河越か。……やるのだな」
 藤助はすでに見抜いている様子であった。

 河越城下に掲げられていた高札は綱成の命ですぐに取り外されたが、暫くするとまた掲げられていて、それを取り除くとまたある、といった具合でいたちごっこになっていた。城主である綱成は、
「これほどまで立てるという事はたんなる悪戯の類ではないであろう。もしやすると、何かの意図があっての事か」
 と考えるに至って、高札にはお構いなし、という判断を下した。
 それから数日が経った初夏の頃になって、矢文が打たれていた。犬之助はそれを見て、
(やっと来たか)
 と直感した。人のいない隙を狙って矢文を高札から引き抜くと、そこには
「五月十三日、日の出、河越城」
 とだけ書いてあった。五月十三日となると、今日から五日後になる。
(よかろう)
 犬之助は紙を丸めて放り捨てると、高札を取り外した。
 高札がないのを見届けて、猪助と藤助は小田原に戻った。その戻る道すがら、
「勝てる見込みはあるのか」
 藤助の問に、猪助は何も言わなかった。
 小田原に戻った二人は遊女屋の前で別れ、猪助は小糸の元に戻り、藤助はそれを不安げな顔で見届けた。
 それから四日経った。五月十二日である。
 藤助は、
(まさか今でもいるわけはあるまい)
 と、聊かなる不安を杞憂になるであろうと信じつつ遊女屋に向かった。
「小糸の所に、客はおるか」
 遊女屋のあるじに藤助が尋ねると、あるじは困った顔をして
「ええ、ここ四日ばかり居続けておりますが、いつまでたっても小糸が空かないので困っておりまする」
(やはりか)
 藤助は不安が的中したことに腹が立ったようで、猪助のいる部屋に踏み見込むときの迫力は余人をもって抑えがたいほどであった。
「猪助!!」
 藤助が部屋のふすまを蹴破った。猪助は事もあろうに大きないびきをかいてい寝ていたのである。その隣で小糸は絡みつくように眠りこけている。
「起きぬか!!」
 藤助は猪助の頭を蹴り上げると、猪助はようやく目を覚ました。
「藤助ではないか」
 間の伸びた声がさらに藤助の神経を逆なでしたようで、藤助は帯びていた脇差を素早く抜いた。猪助、それを見越して藤助の手首を制するとそのまま押し切って脇差を戻した。藤助は、
「今何時だと思う」
 見ればすでに黄昏て烏の声が細い。
「すでに申の刻に差し掛かっているぞ。明日であろうが」
 猪助はそれに対して不敵に笑い、
「分かっているともさ」
「ならば何故ここに居る。早う行かんか」
「今から行く。ただし、支度をしてな」
 猪助はそういうと目を擦って寝ぼけている小糸に
「少し、出かける」
 とだけ言い残して遊女屋を出た。
 その後、猪助はすぐに出立の支度をして小田原を出た。すでに申の刻を過ぎて酉の刻中ほどの頃である。
 それから夜通しかけて河越についた。すでに払暁を見極めようか、というほどであるから猪助は全く休んでいないことになる。少し遅れて藤助もやって来た。この頃になると、先ほどのいらつきはなくなっている。
 日の出になった。若い影が見えた。
「太田犬之助だ」
 律儀にも若者は名乗った。忍びではあってはならぬ事であるが、それが彼の性格であろう。その証拠に、忍び装束の中に帷子を着込み、忍び刀を、柄を左肩に見せながら背負っている。
 そして顔を見せた。改めてみると、若者というよりも少年の如き幼い顔つきであった。猪助も、
「二曲輪猪助という」
 といって、すこし皺を刻んだ顔を見せた。犬之助は、
「そのなりはどうした」
 と尋ねるほどに、猪助の装束は変わっていた。忍び刀もなければ、帷子を着込んでいる様子もなく、裸の上に装束と草鞋を着けているだけの粗末な恰好である。猪助は気にすることなく、
「これでよい。それよりもだ、貴様が仕掛けて来たのだ、見返りはあろうな」
「見返りを欲するのか」
「無論だ。そうでなくては張り合いもでるまい。それで、貴様は何を齎す」
「ならば、上野の事を知っている限り話そう」
「では、我は北条の事だ」
 犬之助の目が光った。猪助は、
「どうして勝ち負けを決めるのだ」
「ここから西に走るだけ走る。そして、参ったと申し出るか、倒れれば負けだ」
「分かった。藤助」
 と猪助は叫んだ。やって来た藤助に、
「合図を出してくれ」
 というと、藤助は引き受けた、と応える。そして、
「双方とも用意はよろしいか」
 とそれぞれに尋ねた。用意は整っている、という。
「では、はじめ!!」
 藤助の声があたりに響くと同時に、二人の背中はすでに小さくなっていた。

 西に向かう二人の地形を少し説明をすると、河越城の周辺は平地となってはいるが、その西は秩父山地となって、二人はこの秩父山地の南側の峰々を走ることになる。秩父の南側は名栗渓谷で、蕨山、有間山、とそれぞれ標高が千米級の山々を越えて行かねばならない。更にその向こうの白石山に至っては二千米をこえ、秩父山地の象徴となっている。
 その中を猪助と犬之助は走っている。
 はじめこそ二人は駆け引きをするように二人並んで走っていたが、秩父山地の入り口である物見山を過ぎて伊豆ケ岳あたりになると、徐々に差が出始めた。
(このようなはずではない)
 と犬之助は思惑が外れた事に悔しさをにじませている。犬之助は自らでも気が付かぬほどの微かさで速度が落ち始めているのに対して、先を走っている猪助に遅くなる気配がない。
(まだいける)
 犬之助は腕を伸ばせば背中を掴めそうなほどの距離にいる猪助を見てそう思った。
 勝負はまだ続く。伊豆ケ岳を越えると浦山渓谷へと続く。ちなみに、この南にあるのが天目山で、今二人が走っているこの頃より遥か後年、武田勝頼が自害をして武田家が滅亡する場所となる山である。
 無論、この事を二人は知る由もなく、ただ山並に沿うようにその身を上下させている。猪助は未だ足が衰えぬのに対して、犬之助は目に見えて足が遅れている。猪助はそれを見つけると、その場で足踏みをしながら待っている。急に足を止めることによる体の負担を考えているのである。
「ここで止めるか」
 猪助の息は少し弾んでいるだけで、全く切れていない。恐らくこのまま最果てまで走っていけそうなほど、顔の血色はいい。それに比べて犬之助の顔色は空よりも青ざめて、傍で見ていて苦しくなるほど呼吸が出来ていない。だが犬之助は
「ま、……まだ終わらんぞ」
 といって走り始めようとする。猪助は、
「そうか」
 とだけいってまた同じように走っていく。犬之助も辛うじて走れてはいるが、その速度はとても忍びのものとは思えぬほど遅い。犬之助は体力というよりも精神力で走っているようなものであった。
 相手が負けを認めぬ限り、この勝負は終わることはない。その為、猪助はまだ走り続けねばならない。浦山渓谷のさらに西にある川浦渓谷にさしかかると、最早猪助と犬之助の差は誰が見ても歴然としていて、この勝負自体が無意味になっている。その事は猪助自身が、寒風が装束の中をすり抜けるように身に染みて分かっている。 猪助は暫く待った。あの犬之助の性格から考えれば、必ず、地を這ってでも来るはずだからである。猪助の息も、ここまで来れば多少上がってはいるがそれでも犬之助の酷さに比べれば全く大したもので、まだまだ走れる体力は十分に残っている。
「来るのか」
 猪助は余りに待つ犬之助に多少の心配をした。聊か奇妙な心理である。
「もう少し待って来なければ迎えに行くか」
 と、路傍の石に腰を下ろしてさらに待つ。すると、石が転がり落ちる音が聞こえたので見てみると、犬之助が胸を掻き毟るように掴んで、ばたつかせるように足を動かしてやってくる。さすがに猪助は出迎えた。
「大事ないか」
 犬之助を抱え起こすと、犬之助の顔色は最早土色になっていて、心臓のあたりを何度もたたいたのか、青黒くなっている。
「無茶をするからだ。あの時に止めておけば、命は助かったであろうに」
 猪助は滅多に出ないはずの感情がなぜかここにきて出た。犬之助はそれを不思議がってみている。
「なぜ。……なぜ」
 と犬之助は問うた。負けたのか、という事であろう。
「忍びはな、命のやり取りはせぬ。術のやり取りをするのだ」
 猪助がそういうと、犬之助は満足した笑みを浮かべて事切れた。猪助は犬之助の死骸を抱きかかえて、河越城に戻っていった。
 河越城についたのは午の刻過ぎで、藤助はずっと初めの場所で待っていた。
「猪助、猪助」
 藤助は猪助の姿を見つけると手を振って喜んでいたが、猪助の表情を見るにつけて喜びが失せていった。犬之助の死骸を抱えていたという事もあったが、それ以上に猪助の表情に勝利の喜びもなければ、晴れた表情もなく、ただ木彫りの面をつけた様に表情が消えてしまっている。
「どうしたのだ、猪助」
「術のやり取りほど、無駄なものはないわい」
 猪助の言葉は鉄球を落とした地面のように沈んでいる。

 猪助は犬之助を葬ると、そのまま小太郎の屋敷に向かった。小太郎は、また薪を割っている。
「その様子だと、勝ったな」
 小太郎は振り向きもせずに言った。猪助の返事が聞こえないので、振り返ると、猪助の表情が消えている。
「忍びに感情はいらぬぞ」
「分かっておりまする」
「分かっておらぬ。ぬしゃ、相手に入れ込んだな」
 猪助が何も言い返さない所を見ると、図星のようである。
「そのような者は使い物にならぬ。さっさと出て行け」
 小太郎はまた薪を割り始めた。猪助はそのまま小田原から消えた。
 その後の猪助がどうなったか。はっきりとした文献には出ていないが、これより後の話にこのようなものがある。
 伊賀の地に、相模から来た男がいる。その者は足が頗る頑健で、何処をどう走っても、土地のものである伊賀者に負けたことがなかった。伊賀の者はこの男の凄さに舌を巻くと同時に、忍びのものに違いない、と定めて
「是非とも、伊賀の為に力を御貸し願いますよう」
 と願い出ると、男は了承した。その男の口癖は、
「忍びは命のやり取りではない。術をやり取りだ」
 というものであった。

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