雷 第九話

安政二年は、その年号とは逆の不安な曙が顔を出した。
 前年の秋に起こった地震である。十一月三日の朝九時に起こったこの地震は翌五日深夜にまで余震が数度あった。その前、つまり嘉永の最後の年にも地震が頻発し、江戸の市井は
 ―― 黒鯰が怒っている。
 と考えた。黒船来航によってただでさえ不安になっている所へ、追い打ちをかけるようにして起こる地震によってその焦燥感がいやがうえにも高まらざるを得なくなり、一部の間からは終末信仰さえ生まれる始末となっていた。
 当然、その不安と焦燥は十兵衛のいる長屋にも及んだが、十兵衛はそれどころではない。日に日に大きくなるおみよの腹をさすりながら、なにくれとなく家事をしているが、やはり男である。どうにも心得がわからぬようで、長屋の女房連中に手伝ってもらいながら一方では剣術にも通い、体が一つでは足りないほどであった。
 日に日に大きくなっていくおみよのお腹を見ながら、一方で生活の口が乏しい現実があり、ましてや仕立ての仕事もままならぬ状態であっては生活が成り立つわけでもなく、十兵衛は刀を死蔵するかどうか考え始めていた。つまり、武士を捨てる、ということである。
「何、そもそも主君に仕えておらぬのに武士も何もない」
 と強がりを言ってみは見せるものの、やはりそこには愛着、という言葉が生ぬるいほどの執着があって、その執着が足首につけられた鉄球のように、十兵衛を捕らえて離さないのである。
 その揺れ動きは、剣術の動きにも当然映え、それはかつての鈍重さとは違う形で又十郎の目に映った。
(迷っている)
 無論、又十郎のほどの器量の持ち主であれば、それは瞬時に見つけることは出来たが、その原因までも見つけることは出来ない。焦れた又十郎が竹刀を持ち、
「十兵衛、来い」
 と、門弟を押しのけて、構えた。
 確かに十兵衛はそこにあって、そこにいなかった。あの時のような雷が地面を早く鋭く穿つ動きはみじんもなく、ただ小手先で凌ごうとしているのがありありと分かった。又十郎にとってそれは業腹であった。又十郎は竹刀をだらり、と下げると
「どうした、くずだるまが」
 と大音声で一喝した。道場内の全ての門弟が括目した。又十郎は一度も十兵衛をそのように罵った事はなかったからである。刹那、十兵衛は張りつめた琴線が耐え切れず真ん中から切れて勢いよく飛び出すように、又十郎にかかった。それは又十郎が竹刀の切っ先を上げる暇を与えず、十兵衛は何度も振り下ろした。打撃、というよりも斬撃といったほうがいいかもしれない。
 堪らず又十郎は躱しに横に飛ぶや、側面から十兵衛の隙を捉えると脇腹めがけて振りぬいた。十兵衛の肋骨を的確に払った衝撃は、十兵衛をひるませた。すると攻守は逆転し、又十郎はすんでのところで拾い上げるようにして勝った。
 が、十兵衛はそれで納まらず、なおも又十郎に挑もうとした。又十郎は竹刀を構えたが、それよりも早く十兵衛の喉元への突きが入った。それは竹刀がうねるように曲がって真っ二つになるほどの勢いであった。自然、又十郎は気を失った。
「先生、先生」
 新八郎が寄り添って介抱すると、何度も大きくせき込みながら又十郎は息を吹き返した。門弟が次々と又十郎に駆け寄る。
「十兵衛。やりすぎだぞ」
 新八郎がたしなめようとすると、
「いや、構わん」
 と、又十郎が制止した。
「ああでもしなければ、十兵衛の気合いは入らなかった。しかし、どうしたのだ。稽古に身が入っていない。それでは仕官の道なぞ拓けんぞ」
 十兵衛は暫く押し黙っていたが、口を開いた。子供が産まれそうなのである。妻がいた事すらしない連中は天地がひっくり返るほどに驚いたが、すぐに喜びに変わった。
「何。それは慶事ではないか、よかったよかった」
「ゆえに、どうするべきか分からんのだ」
「十兵衛は浪人だ。いうなればご内儀の稼ぎで食べている以上、子供が産まれるとなれば十兵衛が稼がねばならん」
「それで、迷っていたのか」
 浪人の切実な問題はそこにあった。いうなれば浪人の稼ぎは内職であり、その小さな稼ぎでもって喰いつがなければならない。しかし、十兵衛の場合、おみよの仕立ての稼ぎで生活をしている。しかし、それすらも子供が出来た事で立ち行かなくなってしまう。ならばそのような面体など捨ててしまえばよい、となるのだが他の道で成功するという確信が得られるほどの特技や技能があるわけでもない十兵衛からすればそれは無謀といったほうがいいかもしれない。
「ならば、どうするのだ」
 問われても、十兵衛の中で答えが見つかっていないため、どうにも詰まってしまっているのである。
「このご時世だ、仕官の道はあるにはあるだろうが、それとて危ういものだ。ただでさえあの黒船が来てから江戸は揺れに揺れている。皆の者にも言っておくが、これから時代はどう変わるか分からん。今日あった事と同じ事が明日にあると思うな。我々は未曽有の岐路にあることを忘れるな。己の道は己で決めよ」

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