雷 第三十四話

西郷は広島から小倉に向かっている。
 副総督府がおかれている小倉ではちょっとした面倒事が起きていた。というのも、前述した三条件に追加して設けられた二条件について反対した西郷に、小倉から不満が出たのである。
「憐憫をもってくだされ御沙汰が非常に寛大であるのに、それを反対するのはいぶかしむ」
 というものであった。ともかく、西郷は説得せねばならない。
 西郷が幕末期における策謀家としての側面が出始めたのはこの頃からといっていい。
 小倉に着いたのは十一月二十三日である。まだこの頃は高杉は福岡にいて、平尾山荘に潜伏していた頃である。
 西郷は小倉副総督の松平茂昭に会った。越前松平藩主であり、松平慶永(春嶽)が安政の大獄で隠居してから家督を継いだ人物である。茂昭は目元がはっきりしている端正な顔立ちで、不釣り合いな具足の姿が聊か滑稽に見えた。
 取次の者によって西郷は軍議評定の場に立った。
「西郷、成瀬様の考えを再考するように具申申し上げたそうだな」
 茂昭は目を吊り上げた。
「はい。それが御公儀にとっても、長州にとっても最善の策であると踏んだからです」
「どこがだ。御公儀に反旗を翻し、朝廷に発砲した長州は逆賊であるぞ。それを助けるというのか」
「そうではありません。家老を切腹させ、首謀者は斬首しました。つまり、責任者は全て自らその責を負ったのです。もう、ここらへんでよいでしょう。これ以上長州を追い詰めると、何をしでかす分かりませんぞ」
 西郷は愛嬌のある肥った顔に冷徹な怒りを帯びさせた。何度も死線を潜り抜けた男の凄味は、このエリート武士に甚く効いたようで、
「……ならば西郷。おぬしがこの一件の責任を負え」
 茂昭はそういって、西郷に責任を負わせた。
 こうなると、西郷は責任というよりも、自分が切り回しをする策謀の時間にすべてが割けられるのである。むしろその方が都合がよかった。
 十二月五日、総督府に藩主父子から一連の騒動に対する謝罪の手紙と山口城に対する見解書が送られてきた。恐らく吉川が藩主である毛利敬親に言上し、それに応じて書いたものであろう。
 それによると、山口城は城ではなく館である、という事が書かれていた。西郷にとってこれは少し予想外であった。
「長州の律義さか」
 と、小倉にいる西郷はそうつぶやいた。そうなると、西郷の大きな情がさらに長州によって動かされ、度合いは深くなっていくのである。何としても長州は救わねばならぬ。それが出来るのは西郷だけなのである。
 その為の最大の障害が、五卿の追放である。
 西郷は筑前福岡藩士である越智小平太、真藤登、喜多岡勇平の三名と会った。
「我が藩主、黒田斉溥は五卿について引き受ける、と申し出ております」
「それはまことか」
「はい。殿は、殊の外この一件に対して思い入れあるようで、五卿を引き受けることで事態が収まるのであれば是非に、と仰せでござった。それに」
「それに、とは」
「殿は元々薩摩の御出身であり、名君と謳われた島津斉彬公と親しい間柄であった方。そして今参謀を務めておられる西郷様は、その斉彬公の秘蔵っ子」
 喜多岡は少し茶目っ気を入れて言ってみた。西郷は響くような大きな笑い声で、
「それほどではない。殿に気に入れられたのは事実かもしれんが、秘蔵っ子とはちと痒いのう」
「まあ、その事もあって、殿がみずから引き受ける、との事でござった」
「これはかたじけない。……後は、談判するだけだ」
「それについても、我らが僭越ながら道筋を付けさせてもらいました。我が藩の月形洗蔵が、すでに五卿の動座の確約を取り付けてござる。後は諸隊をどうやって説得するかだけござる」
「ほう、月形殿が動かれてござったか」
 西郷は驚いた。福岡藩の月形洗蔵といえば、土佐における武市瑞山の如き存在であり、あるいは長州における桂小五郎の如き存在の者である。この月形はこれより少し後に藩内での政争に負け、殺されることになる。西郷は、この月形を
 ――志気英果なる、筑前においては無双というべし。
 といって称えた。
「それで、西郷殿、方策はありましょうや」
「ない」
 越智の問に、西郷は言い切った。
「ない、とは」
「おいのこの身が方策でござる」
 と、また腹を抱えて笑った。

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